書籍・雑誌

2015年11月30日 (月)

互助会精神

友人の作家石田ゆうすけ氏が、彼のブログに私のソロピアノアルバムについての感想を書いてくれたみたいで、今日は彼のブログ経由でのアクセスが結構たくさんある。

という事は、彼の読者が今日はこのページに来て下さっている訳なので、私がこれまでに書いた彼の著作についての文章を紹介。

こういうのを「互助会精神」と言います。

石田さん、ありがとう。

・書評『洗面器でヤギごはん』

・虚構が現実を超える日

・台湾自転車気儘旅

他にもあったと思うけど見当たらないのでとりあえずこの三つ。

しかし、20代の時の自分の書いた文章とか、読み返していてイタさしか感じないな。

ちなみに彼が今回書いてくれたのはコチラ

本当にありがとう。

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2015年6月19日 (金)

『ユリシーズ』あらすじ

数日前にぶっ倒れて、珍しく二日連続でブログをさぼったので、今日はこれまた珍しく二本目を書いてみる。

人の誕生日や記念日を覚える事が壊滅的に苦手である。昔は覚えられたのだが、最近はとんと覚えられない。自分の誕生日すら危うい時がある。

なので、朝のニュースなどでやっている「今日は何の日」みたいなコーナーは結構好きだ。

へえ、今日ってそんな日なんだ、という感じで興味を引かれる。

で、ここ数日、あれ、6月の十何日って何かの日だったよな、何だったっけな、と思いながらもやもやとしていたのだが、つい先ほど思い出した。

今日、6月19日が桜桃忌で、三日前の6月16日がブルームズデイだった。

桜桃忌というのは作家太宰治の命日(正確には遺体が発見された日)であり、太宰の墓のある三鷹の禅林寺には中二病をこじらせた感じのイタイ人たちが集まって太宰の墓に手を合わせる日だ。

なぜこんな少々悪意のある書き方をしているかと言うと、私も行っていたからだよ!桜桃忌に!高校三年間は毎年!そして一番最近だと6~7年ほど前ぐらいに!私もイタイ人たちの仲間だったの!まあイタイよね。というか私が一番イタイよね、恐らく。

まあ良いや。この辺の顛末は何か月か前にメルマガにも書いたし。

あ、メルマガを読みたい人はご一報くださいね。時間のある時に限りバックナンバーの配信サービスもやっていますので、過去のものを読んでみたいという奇特な方もどうぞ。全体的にアホな事しか書いておりませんが。

今日は桜桃忌なんである。そして三日前の6月16日はブルームズデイなんである。

ブルームズデイとは何だそれは、という方も多いと思う。

ジェイムズ・ジョイスというアイルランド人の作家の書いた小説『Ulysses(ユリシーズ)』という小説がある。

主人公のレオポルド・ブルームという中年の男がただひたすらにダブリン(アイルランドの首都)をうろうろする、という内容の小説である。

で、このうろうろしていた日が1904年の6月16日(正確には日付変わって17日の深夜まで)という設定。なので、主人公のブルームの名前をとってブルームズデイという訳だ。

ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』を下敷きに書かれているというこの作品は、プルーストの『失われた時を求めて』と並んで20世紀最大の問題作であるという評価がされている。ちなみに私はプルーストの方は読んだ事がない。いや、読み切った事がない。7回ほど読破にチャレンジしたのだが、途中でめんどくさくなって放り投げた。長えんだもん、すごく。

で、この『ユリシーズ』の方は日本語版ではあるが、読破した。一回読んでさっぱり意味がわからなかったので二回目も読んでみたが、それでもさっぱり意味がわからなかった。かなり頑張って読んだ。これまでに結構たくさんの小説を読んできた方だとは思うが、最も苦労して読み終わった。はっきり言って苦痛だった。

で、頑張って読んだので、ここで『ユリシーズ』のあらすじを紹介したい。

はい、世界の名作文学をフクシマが雑過ぎるあらすじ解説で台無しにします。

『ユリシーズ』あらすじ

・最初に登場するのは第二の主人公、スティーブン・ディーダラス。

・スティーブンが海辺の塔で友人と会話。最近会ったアホな出来事とか。

・スティーブンは学校の先生で、その後学校に行って授業。その後給料をもらう。

・給料をもらったら海辺に行ってぼんやりする。

・場面変わって主人公レオポルド・ブルーム登場。

・街に買い物にでかけるブルーム。豚のレバーを買う。途中ですれ違った女性のケツに見とれる。

・家に帰って妻のモリーに朝飯を作るブルーム。モリー宛てにボイランという男から手紙が来ているのを発見して「モリーのやつ浮気してんじゃねえか?」と疑う。

・ブルームとモリーが会話する。途中で「メテンプサイコーシス(輪廻転生)」という言葉が出てくる。

・ブルーム再び出かける。郵便局へ。実はブルームはヘンリー・フラワーという偽名を使ってマーサという会った事のない女性と文通のみの浮気をしている。プラトニックかつ中学生っぽい浮気。

・郵便局でマーサからの手紙を受け取ってそれを読んでにやにやして、「でも女って怖いもんなあ」なんて思うブルーム。

・ブルーム、その後葬式に列席。

・ブルーム仕事へ。ブルームの仕事は広告屋。新聞社へ。あれこれと災難な目に遭う。

・ブルーム、腹が減り昼飯。サンドイッチなんぞを食いつつメシ屋のオヤジや客などと談笑。

・メシ屋からの帰り道、ボイラン(妻モリーに手紙を送っていた男)を見かける。ブルーム隠れる。また「あのヤロー、うちの妻と浮気してんじゃねえか?」などと思いつつもブルームはうじうじするだけ。

・場面変わって図書館。スティーブンが仲間たちと芸術談義。白熱する。

・また場面変わって本屋。ブルーム、エロ本を買う。

・ブルーム、エロ本を持ってホテルのバーラウンジのような所でピアノを聴く。ピアノの最後の一音に合わせて屁をこく。

・その頃ブルーム家にはボイランがやって来ていて、モリーとボイランは絶賛浮気中。現代でいう所の矢口真理的なアレ。

・ブルーム、パブに入って酒を呑もうとするが、そこにいた犬(ギャリオーエンという名前)に追いかけられて半べそでパブを脱出。

・ブルーム、海岸へ行く。

・海岸では花火が打ち上がっている。浜辺にガーティという名前のかわいいチャンネーがいる。

・チャンネーのスカートがはだけそうではだけない。見えそで見えないパンチラもどきにブルーム、ものすごくムラムラする。

・ブルーム、岩陰に隠れて手淫を開始。花火の最も景気の良いやつが打ち上がるのに合わせてブルームも発射。

・その後賢者モードに突入したブルーム、病院へ。知り合いのお見舞いへ。そこで初めてスティーブンと会う。スティーブンたちはラウンジで酒を呑んでいる。

(この辺からかなりカオス)

・更に呑み屋へ。ブルームの妄想地獄。自分が女装して先程の犬(ギャリオーエン)に追っかけられる妄想をしたり、裁判にかけられて死刑判決を受ける妄想をしたり。スティーブンもスティーブンで妄想地獄に陥り、二人して「ぎゃああああ、もうやめてえええええ」みたいな感じで呑み屋脱出。

・ブルームとスティーブンの会話。スティーブンが「ぼくは文学者になりたいんです」とか言う。「良いんじゃね」とブルーム。

・最終章(第18章:ペネロペイア)はブルームの妻モリーの脳内垂れ流しの独白。句読点一切ナシ。

・昼間のボイランとの矢口的な浮気を思い出したりして彼のイチモツはでかかったなあとかでも彼との関係はもう終わりにしなきゃとかブルームと今後どうしようとかそんな事を考えたり、←こんな感じの文体。

・↓最後数行

・すると彼はあたしにねえどうなのと聞いたyes山にさくぼくの花yesと言っておくれとそしてあたしはまず彼をだきしめyesそして彼を引きよせ彼があたしの乳ぶさにすっかりふれることができるように匂やかにyesそして彼の心ぞうはたか鳴っていてyesとあたしは言ったyesいいことよYes。(集英社文庫『ユリシーズⅣ』p387-388)

以上『ユリシーズ』あらすじでした。

自分で書いていても何じゃこりゃと思う。

いや、とにかく三日前の6月16日がブルームズデイだったので書いてみました。

専門の文学者からの苦情は一切受け付けません。「フクシマここ合ってねえじゃねえかゴルァ」みたいなやつは。

このカオス過ぎるあらすじを読んでみてそれでもなお読んでみたいって方は是非どうぞ。

読み終わったら一緒に「何だよあの小説、ホントに意味わかんねえよな」と感想を言い合いましょう。

【追記】こちらの記事、なぜか定期的にバズるので、YouTubeチャンネルのURL貼っときます。本業はピアニストなんです。良かったら演奏を聴きにきてください。 福島剛YouTubeチャンネル

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2011年9月 5日 (月)

誰も死にたがっている人なんていない、テンマは確かにそう言った

これから池袋でレッスン。その後、上野へ向かって「アリエス」でライブ。

珍しくバタバタしてるので、更新も手抜きですみません。

バタバタしている原因は、せっかく早起きしたのに浦沢直樹の「モンスター」という漫画をひたすら熟読していたからです。

いや、この漫画、久しぶりに読み返したのだけれどめちゃんこ面白いんだもの。ニナ(アンナ)とヨハンの隠された過去の記憶、511キンダーハイムで行われた悪魔の実験、翻弄される主人公Dr.テンマ、交錯する人間ドラマ。

個人的にはグリマー(ノイマイヤー)とDr.ライヒワインが好き。最終巻のグリマーとかさ、すげえ良いんだよ。

最初に読んだ時には手塚治虫の「アドルフに告ぐ」に似ている、と思った。実際に浦沢直樹は手塚治虫を尊敬している事を公言してるし。

しかしここ最近では、ドストエフスキーの「罪と罰」に似ている、とも思う。

読んだ事が無い人は是非御一読を。

という事で、本日は上野で19:30からライブしてます。

よろしくどうぞ。

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2011年7月22日 (金)

最新刊

最新刊
ギヤアアアア!!羽海野チカ先生の「三月のライオン」の最新刊第六巻が今日発売されたあああああ!!!!

本屋で即買ったあああああ!!!!

今から読むうううううううう!!!!

超楽しみいいいいいいいい!!!!

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2011年5月23日 (月)

先日図書館で借りた本

三冊借りた。

「はじめての将棋」森内俊之監修・小暮克洋著

「最新矢倉戦法〜3七銀戦法」高橋道雄著

「正しいピアノ奏法」御木本澄子著

以上三冊。

明らかに、ピアノ奏法の本を最初に読まなくてはいけないのに、必死に「現代矢倉の3七銀戦法」を勉強してしまう。

3七銀から4六銀と上がる。代わりに3七には桂が入る、という陣形が面白い。6八から角の睨みを利かせておく訳ね。ほうほう。

ああ、ピアノ奏法の勉強もしないと…

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2011年5月22日 (日)

言葉

何かわからない事、というか、「お、これはぜんたいどうしたもんだろ」という事に向き合わざるを得ない時というのは、誰にだってある。いや、誰にでもは無いかも知れないが、よくはある。

そんな時に、「あの人ならばどう考えるんだろうか」と、参考にしたくなる人というのが私には何人かいて、その内の一人は吉本隆明さんという人だ。

昭和から平成にかけて、「知の巨人」だとか「戦後最大の思想家」などと形容される事もある人なので、勿論エライ人なのではあるが、私の認識としては「稀有なほどに、徹底して嘘の無いおじいちゃん」である。そう、彼の言葉には驚くほど嘘が無いのだ。

難しい本もたくさん書いていて、「共同幻想論」だとか「言語にとって美とは何か」だとか「心的現象論」だとか、タイトルだけでお腹いっぱいになりそうな著作がいくつもある。若い頃に背伸びをして読んでみたが、書いてある事の一割もわからなかった。その後、「サルでもわかる共同幻想論」みたいな本を幾つか読んで、少しはわかったような気になったが、やはり基本的には「わかっていない」。

けれど吉本さんが年老いてからは、糸井重里さん辺りの「吉本さんの事が大好きな人達」が、彼の言葉を聴きに行って、私のような堪え性と理解力に乏しい人間達にもわかりやすいように、彼の考えを伝える役割をしてくれている。これは実にありがたい。

我が家に吉本さんの特集をした雑誌があって(やはり糸井重里さんが中心になって企画してくれたそうなのだが)、それを電車の中でパラパラと読んでいた。

やはり彼の言葉は、とても真っ直ぐに私の心に響く。

今日は彼の素敵な言葉を少しだけ紹介して、本日のブログ記事に代えたい。

「自分だけが決めたことでも何でもいいから、ちょっとでも長所があると思ったら、それを毎日、10年続けて、それで一丁前にならなかったら、この素っ首、差し上げるよって言えるような気がしますね」

「子供が何をやろうと、たとえ犯罪者になろうと、オウムに入って出家したいって言おうと『やってみな』というだけでね。『挫折したりイヤになったりしたら、まあ、戻ってくればいいよ』って。そういうことなら、やや、僕はできる」

やはり彼の言葉には勇気付けられるのである。

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2011年1月26日 (水)

図書館にハマる

我が街小岩にある小岩図書館がなかなかに良い。

CDを一回三枚まで無料で貸し出しているのだが、ジャズのCDのラインナップがそこそこに充実している。

ブルーノート盤やプレステッジ盤など、いわゆる「ベタな」ラインナップなのだけれど、私自身のレコードコレクションにはそういったベタな所が少々手薄な所もあるので少しずつ借りて来ている。

先日借りたのは、ホレス・シルウ゛ァーとエリック・ドルフィーとケニー・バレルの三枚。奇しくも全てブルーノート盤。

ケニー・バレルのギターをちょっと聴いたが、やっぱりカッコイイ。無理してジャズっぽくしようとせず、かといってブルースフィーリングもほどほどに抑えて、という感じが絶妙に心地好い。

次は何を借りようか楽しみなのだが、小岩図書館のラインナップでは、ジャズ以外に充実しているのは落語。一通りジャズを借りたら、恐らくはその後は落語ばかり借りるのだろうな。

図書館はなかなかに良い。

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2011年1月 9日 (日)

台湾自転車気儘旅

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深刻な不治の病として、「マイウー症候群」という病気が医学界から発表されて久しい。人命に危険をもたらす可能性のあるこの病は、日本のみならず、世界各国で猛威を振るっている。

患者達の主な症例としては、精神の破綻が挙げられる。

例えばこんな状況。

夜間のスポーツニュースも終わり、さてそろそろ床に着くかと考え始めた午前一時、青天の霹靂の如く脳裏に浮かぶ一つのテーゼ、「ラーメン食いたい」である。

この想念に憑かれたが最後、患者は向こう三時間ばかりラーメンの事しか考えられなくなるのである。コシを残して茹でられた味わい豊かな麺、芳醇なダシの香りのスープ。それらを複雑に絡めつつ勢い良く啜る我が身を夢想する事で、眠ってなどいられなくなるのである。漫画の表現として「金の事ばかり考えている人間の目の中を¥マークで表現する」という日本古来の伝統的な技法があるが、その技法に沿って考えるならば、この時の患者の目の中は「ラーメンマーク」で表現されるのが最も適切である。

「ラーメン食いたい」

「今食うと太る」

「そしてオレは太っている」

苦悶と懊悩の時を過ごし、眠れぬ目をこすりながら明け方に近所のコンビニへカップラーメンを買いに行くその様は、まさに薬物中毒患者のそれである。完全に精神が破綻していると言わざるを得ない。

さて、この恐ろしき「マイウー症候群」であるが、私も勿論この病に冒されている。医学の専門家によれば、私の余命は残り短ければ二日、長ければ七十年という事らしい。自らの余命を宣告される事ほど残酷な事は無いが、私には残された限り有る余命を懸命に生きる義務があると思い、今日も一日を生きている。

そんな私を遥かに凌駕する程の重篤な「マイウー症候群」の患者が、私の友人にいる。「石田ゆうすけ」というのが彼の名だ。物書きとして数冊の本を上梓し各地で好評を博している為、その名前を見知り置いている方も少なくないかも知れない。

彼の病状は極めて深刻だ。医師から彼の病状について「残念ですが…持って…あと六十年…」という言葉を聞いた時には私もがっくりと肩を落とした。友人である彼の事ゆえ、無念さを禁じ得ない。

そもそも、マイウー症候群の発症の原因として挙げられるのは、脳の異常である。何かを「食べた」時、仮にそれが「美味かった」時(ここで言う「美味い」という概念は形而上学的かつ観念的ゆえに多義的な意味を含むが、ここでは説明を割愛する)、脳味噌からは快楽物質である汁(通称:脳汁noujiru)がちゅるちゅると出る。

「うまい…」

小声でそう呟いた時に、更にちゅるっと汁が滲む。

返す刀での咆哮。

「美味いぞーっ!!!!!!!!!」

この時には汁は滲み出るというレベルを越え、「溢れ出る」。脳味噌が脳汁で水の都ヴェネツィアになってしまうのである。

この快楽物質の魔力に、我々患者達は文字通り「溺れる」のだ。一度その甘美な瞬間を味わった者は、「うまいもんはねえが、うまいもんはねえが、泣ぐ子はいねが」と譫言のように呟き、宛てどもなく街から街へと彷徨ってしまう。

前述の石田ゆうすけであるが、彼に関してはその症状は最早末期である。症状の最も酷い形として著されたのが、彼の最新作『台湾自転車気儘旅〜世界一屋台メシのうまい国へ』である。このタイトルからも彼の重篤ぶりは想像に難くないだろうが、帯に記されたコピーは「台湾一の“うまい”をめぐる旅」である。完全に「お気の毒様」レベルのマイウー症候群患者である。

彼の「うまい欲」は凄まじい。渇えた砂漠が水を欲しがるその欲求のように(砂漠に欲求があるかどうかは疑問だが)、彼は日々「うまい」を求めている。自身のブログには近所の「世界一美味い焼鳥屋」や、京都木屋町の「奇跡のおでん屋」などが日々紹介されている。

その欲求が、日本だけには飽き足らず、「台湾を自転車で一周しながらひたすらにうまいものを探す」という暴挙に彼を駆り立ててしまった。

しかも彼は台湾一周の最中に事故に遭い、鎖骨を骨折し一時帰国の目に追いやられたにも関わらず、暫くして六割ほど骨がくっついた辺りで「もう行ける、もっかい行ける」と再び台湾へ飛び、事故に遭った地点から再び自転車を漕ぐというキチガ…いや、貪欲ぶりである。まさに「うまい欲」の化身である。「うまい神」である。

その彼が渾身の力を込めて上梓した『台湾自転車気儘旅』。これは大変によろしくない本に仕上がっている。

日中、電車の中で本書を読んでいた場合。そこに「清燉牛肉麺が信じられないぐらい美味い」などという事が色鮮やかな写真と共に書いてあるのである。私の頭は「麺食いたい」という想念で充満し、目的地の駅に降り立った時には「うまい麺はねえが、うまい麺はねえが、泣ぐ子はいねが」と呟き、当初の目的(仕事など)はすっかり忘却の彼方へ、私は麺を求めるジャンキーとなり、その辺のラーメン屋にふらふらと入ってしまうのである。そして私はまた太るのである。

更にこれが寝しなに読むと一層にタチが悪い。小籠包のページを読んでいたならば、「上杉達也は浅倉南を愛しています、世界中の誰よりも」というノリで「福島剛は小籠包とビールの組み合わせを愛しています、世界中の誰よりも、例えそのせいで太ろうとも」と甲子園の公衆電話から告白してしまう。そして食べたくなってしまう。そしてまた私は太るのである。

これほどまでに食欲を駆り立てるこのような本は、有害図書に選定しなくてはならない。国が法律で規制せねばならない。

これ以上マイウー症候群の患者が増えれば、まさに国家の危機なのである。この有害図書は、国家転覆を目論んで書かれた本である事は疑いようの無い事実である。

以下、あまりエンターテイメントしない(正直な)感想。読み飛ばし推奨。

正直に言えば、彼が「次回作は台湾メシ本」と言った時に、私には多少の不満感があった。ご存知の方も多いとは思うが、彼は七年半に及ぶ自転車世界一周というキチガ…いや愉快な偉業を達成した男である。これまでに数冊刊行された彼の著作は、その殆どが世界一周旅行に纏わるものであった。

それが「次は台湾本」と言われた時に私の脳裏に浮かんだのは、「世界一周から台湾一周って、スケールダウンがすごくね?」である。

しかし、その不満は本書を読み進める内に、極めて浅はかな考えだった事を思い知らされる事になる。

結論から言ってしまえば、「どこにでもドラマはある」。

大袈裟な言い方になるが、我々がこうして当たり前に暮らしている事そのものが、大変にドラマチックな事であるのだ。幾代にも連なる祖先の連綿たる系譜として生きている「私」。そこにはドラマがあり、歴史がある。人里離れた秘境にしか物語がある訳では決して無い(無論、「そういう所」にも、在る)。

今作の中で、彼は「台湾の食」を縦の軸に定めながら、横の軸としてそれに纏わる人々や国家の歴史を、軽々とした筆致で鮮やかに描き出した。

先程書いた「どこにでもドラマはある」という事を、世界を自転車の上から見て来た彼だからこそ言いたかったのではないだろうか、そう私は感じた。

またそういった彼の主張は、「食」をメインに据えた事で、あくまでも本題の「食」を引き立てるコラムという役割に収まり、それが絶妙な匙加減、押し付けがましさを感じさせない塩梅で我々読者にすっと入り込む事に成功した。明らかに意図的なものである、と私は感じた。或いは彼は本能的に「どうすれば自分の話を聞いてもらえるか」という事がわかっているのかも知れない。

確かに「とても腹の減る本」ではあるのだが、清々しい佳作だと私は思う。

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2010年12月 4日 (土)

でかい月だな

水森サトリ著「でかい月だな」読了。

新進気鋭の作家のデビュー作である。大変に爽やかで充実した読後感を抱く。

物語は、所謂「青春小説」、或いは「教養小説」という体を採る。登場する人物の大半は中学生という設定だ。

冒頭に起こる殺人未遂事件をきっかけにして、そこに描かれる少年少女達の在り方が根底から変わる。つい先程まで居たその場所には二度と帰れない、もはや我々はまるで別の場所にいる。

そういう風に書いてしまえば、ごくごくありふれた凡庸な話に見えてしまうのだが、このありふれた(或いは使い古された)話に読者である私はぐいぐいと引き込まれた。

その要因の一つには、人物描写の素晴らしさが挙げられる。

私が嘗て随分と「若い」頃に、J・D・サリンジャーの「The Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)」という小説に熱中した事がある。私は主人公であるホールデン・コールフィールドこそが私の親友であるような気がしていたし、彼になら全てを正直に話せそうな気がした。「The Catcher in the Rye」のページをめくる事は、私にとってはホールデンと会話をするという行為と同義だった。蛇足ではあるが、今現在の私はホールデンには全てを正直に語りえない。私も変わったのだ。

卑近な例を出せば、「でかい月だな」という作品に触れている最中に、私はこの時の感覚を鮮明に思い出した。遥か昔の事のように感じられるその青臭い感覚が、不思議な程にありありと私の中に蘇った。

物語の主人公である沢村幸彦、そして彼を取り巻く個性豊かな登場人物達と、私は知らず知らずの内に親密に会話を交わしていた。

「お前のそういう所、好きだぜ」

「でもなかなか世の中は思い通りになんかならねえんだよ」

「お前、そうやってカッコつけちゃってんのは、後から恥ずかしく思い出すぜー?」

有り体に言えば、私は読書に没頭していた。水森サトリという作家の描き出す物語の中に、私は知らぬ間に包み込まれていた。

話がどのように展開していくのか。勿論そんな部分にも期待しながらページをめくっていた訳であるが、それとは別に「この少年少女達は次にどんな言葉を発するのだろう」、私はそんな事を考えながら、そしてとてもわくわくしながらページをめくっていた。彼らとのお喋りに夢中になっていたのだ。

作者の思いがどこまで登場人物に投影されていたのかは私にはわからない。或いは作者自身も彼らとの会話を楽しんでいたのかも知れない。彼らはあくまでも架空の「彼ら」であるが、それぞれに確固たる人格が与えられ、そして各々が勝手に主義や主張を抱いているようにも見えた。

作中にとても印象に残った一文があった。

主人公の沢村幸彦の同級生、中川京一がふとした瞬間に発する一言である。

「沢村君、生きてりゃこの先まだまだ悪いことがいっぱいある。−だから生きよう」

作品を貫くのは、どうしようもないまでの「生への肯定」である。

作者の背景や人格などは何一つ私は知らないが、それでもこの一文を読んだ時に、「水森サトリという作家の事を、とりあえずは信用せざるを得ない」、私はそう思った。

小説も文芸も、更には恥ずかしい事を承知で言えば「文学」も。まだまだ捨てたものではない。

本当に、素晴らしい作家がデビューした。

是非、他の作品も読んでみたい。

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2010年11月28日 (日)

小説は良いなあ

久しぶりに小説を読んでいる。

本当に、以前に比べると小説を読まなくなった。「本を読まないヤツは馬鹿だ」ぐらいに思っていたものだが、まさしくその「バカ」に自分がなっている。そもそも「本を読まないヤツは馬鹿だ」という思い込み自体が正しいのかどうかも、今となっては疑わしいのだが。

緻密に作り込まれた小説を読むのは大変な悦びだ。様々な人物の魅力的なキャラクターが交錯し、重厚な物語が紡がれるその有様に、私はいつも圧倒される。始めてウィリアム・フォークナーやドストエフスキーの作品群に触れた時に、私はその作品達の圧倒的存在感に感動すら覚えた。

しかしそれとは逆に、緻密さにこそ欠けるものの、「勢い」で書かれた瑞々しい作品を読むのもまた大変な悦びだ。

作者の感情(感性ではない)が幾重にも形を変えながら我々読者の前に投じられる。それは素晴らしい快楽だ。

今読んでいるのは、そうした「勢い」に溢れる作品。読んでいる時間も忘れる。作品の世界に没頭していると、例えばそれが電車の中だった場合、小岩から千駄ヶ谷まで、知らない間に運ばれている。

小説は、良いなあ。

音楽も映画も漫画も勿論好きだけれど、それと同じぐらい、小説は、良いなあ。

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