ほんのふとした瞬間に人は恋に落ちる
私は、私という人間の感覚、認識を根本的に疑っている。あまり信用していないと言っても良い。言い換えれば、私は私の「理解」がいかに脆弱であるかを知っている、つまりはそういう事だ。
私の見ている景色は、私にだけ見えている景色であり、私以外の誰かが同じ景色を見た時には、まるで別の景色に見えるかも知れない。私には不毛に見える砂漠は、誰かの目には豊饒な泉に見える事もありうる。例えばフランツ・カフカ的なその不条理を、私は強固に信じている。
認識し、把握する。しかしそれは決して本質を掴むものではない。或いは本質など、この広い宇宙をくまなく探してみてもどこにもないかも知れない。「理解」という事に対する私の不信は、幾分と深い。
例えば。
何気なく眺めていた筈のもの、つまり自分にとっては特別な意味を持たなかったものが、ふとしたきっかけで特別のものになる、自分にとって特別な意味を包含する何かになる、そんな経験をしたことのある人は少なくないだろう。或いはその逆もあるだろう。強いこだわりを感じていた何かが、些細なきっかけで自分にとっては最早「特別ではない何か」に堕する事が。歳を重ね、成長するに従って様々なこだわりは少しずつ剥がれ落ちてゆく。それは必然的な変化だ。我々は変化する事を決して恐れてはならない。
物質・事象・存在の価値は、このように大変流動的であり、可変性に富む。その事を私は幾度となく実感している。そして先日も、した。
私が日中にピアノの練習をしていた時の話である。私は突如として強烈な眠気を覚えた。
あまりに眠い時には、私は無理に練習をしない事にしている。集中力を欠いた状態で、身体に不適当な動きを覚え込ませたくない、というのがその理由だ。眠い時には15〜30分、我慢せずに眠る。長い目で見た時には、そちらの方が効率的なのだ。
その日も私はすぐに眠りに落ちた。そういう時は再び目覚められるように、浅めの眠りである事が多いのだが、浅めの眠りには夢が伴う場合が多い。その日も私は夢を見ていた。夢に出て来たのは、女優の木村多江氏であった。
木村多江氏。映画「ぐるりのこと」で様々な賞を獲得し、最近では映画「東京島」の主役も務めている実力派女優だ、と言えば「ああ、あの人か」と思い出される方も少なくはないだろう。
この木村氏、私も以前から気にはなっていたのだが、特別に好きな女優ではなかった。素晴らしい役者である事には間違いないが、女優と言えば私には「ゆり子(神)」がいるではないか。貞操と純潔こそを美徳とする私は他所へ視線を遣る事を、頑なに拒んでいた。
だのに。だのに、何故。
夢に現れた木村氏の美しさたるや、まさに尋常ならざる美しさであった。
私と木村氏は、昭和の趣の残る家の中で、静かに、そして穏やかに対峙し、時折視線を絡ませていた。沈黙に耐えかねた私が口を開く。
「この間、新しい映画観たよ。すごく良かった。面白かった。」
「ありがとう。大変だったのよ、ずうっと島でのロケだったから。」
「大変だったね。お疲れ様。」
「早く…あなたに会いたかった…」
私と多江の手が触れる。胸が高鳴るのがわかる。多江。
という所で目が覚めた。
どきどきしていた。(←この部分だけ吉岡秀隆の声で読むように)
木村氏が私の夢に現れる事、それは私の想定外の事であった。
私はその日まで木村氏に特別な感情を抱かなかった。しかし、その日を境に私の中に、木村氏に対する特別な感情がはっきりと芽生えたのである。木村多江氏は、むちゃんこ可愛い。
木村氏の事を、色々とネットで調べてみた。どうやら深川は門前仲町の出身らしい。これだけで随分と好感度アップである。もしこれが仮に麻布や渋谷の出身であったら、好感度は下がる。土地に対する偏見を、私は確かに持っている。
どうやら結婚しているらしい事もわかった。案ずるな、私も既婚者だ。
という事で、これから暫くは木村多江氏に積極的に心を奪われながら生きていこうと決めた。
今度「東京島」観に行こっと。
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