ゲイは身をたすく
こんな事を書くと、シャレオツな方々にはドン引きされそうだが、洋服には全く興味が無い。
唯一の例外として、ジャズミュージシャンの顔などがプリントされたTシャツなどは喜んで着るが、これは恐らく洋服に対する興味ではない。
結構良い歳まで母親が買って来た服を着ていたし、今はかみさんに買って来てもらっている。
ただ最近、その買ってくる洋服が、どんどんゲイくさくなって来ている。
奈美子はどうやら私をゲイにしたいのか。
チェックのシャツとかさあ。
こんな事を書くと、シャレオツな方々にはドン引きされそうだが、洋服には全く興味が無い。
唯一の例外として、ジャズミュージシャンの顔などがプリントされたTシャツなどは喜んで着るが、これは恐らく洋服に対する興味ではない。
結構良い歳まで母親が買って来た服を着ていたし、今はかみさんに買って来てもらっている。
ただ最近、その買ってくる洋服が、どんどんゲイくさくなって来ている。
奈美子はどうやら私をゲイにしたいのか。
チェックのシャツとかさあ。
ないっ!ないっ!
アレがないっ!
アレがないとぱーちーに出れない!
まずいっ!
マジまずいっ!
どこだっ!
と家中を探しまわっていたら、出て来ました。
前田智徳のユニフォーム。
これで安心してぱーちーに出れますわい。
今度、結婚のパーティーをするので、その時にタキシードを着なくてはならないそうで、どこかでレンタルしなくてはならない。タキシードなんて、昨年初めて着たばっかりだ。はっきり言うと、タキシードを着る事は全然好きじゃない。
でも、時と場合によっては着なくてはならない。我々は、時と場合を選んで服装を変えるのだ。
「オシャレ」という意味での服装には殆ど興味がない。寒くなくて暑くなければそれで良い。昔から一年か二年に一度くらいしか自分で服など買わないし、最近では私の服装は全てかみさん任せだ。買って来てくれたら、あまり文句も言わずにそれを着る。そんなものだ。
オシャレ命な人々から見れば、私のような服装に対する価値観など「頼むから、5千円あげるから死んでくれ」というレベルのものなのであろうが、そんな私が今日は服装について少しだけ話してみたい。理由は特にない。毎回理由を考えながら書いていたら、ブログの毎日更新なんて無理なのだよ。わかっておるかね。
私は、「ユニフォーム」という意味での服装はとても好きだ。その事を少し。
例えば、肉体労働者の作業着。
私も結構だらだらと、期間だけは長いこと引越し業者でアルバイトをしていた。とても居心地の良い職場だった。生意気で、仕事も出来ない私なのに、不思議なことに「居場所」だけはそこにあった。だからついつい長居をしてしまったけれど、音楽を食い扶持にしてからは、だいぶ足も遠のいている。そんな昔の事を、肉体労働者達の作業着を見る度に思い出すのだ。
またあの作業着に袖を通してみたいな。いや、みたくないのかな。作業着を見ると、そんなむず痒いような気持ちになる。
同じような気持ちになるのが、柔道着。何回かこのブログに書いた事もあるのだが、私は十年以上柔道をやっていたのだ。勿論段位も持っている。10年程前までは、毎日柔道着に袖を通して青畳の上でばたばたやっていたのだ。そう、今現在音楽をやるぐらい自然に、柔道という武道を楽しんでいた。
柔道は、とてもやりたい。恐らく、今柔道をやれば、昔とは違う気持ちで柔道が出来るから。
「誰にも負けたくない」、「誰よりも強くなりたい」そういう気持ちで柔道をやっていた。それはそれで悪い事だとは思わない。「強いって、どんなんだろう?」という男の子独特の好奇心から私は柔道をやっていたのだ。試合で負ける悔しさを学び、二度と負けたくないと願い、そうやって練習をしていた。
しかし、恐らく今ならば、それとは違う気持ちで柔道に臨める。「スポーツ」としての柔道でなく、「武道」としての柔道を。
知人から送られて来た、ピアニスト、アブドゥーラ・イブラヒム氏の言葉にこんなものがあった。(補足:アブサンは日本の古武道の免許皆伝です)
「武道の武には、争いを止めるという意味がある」と。
その通り、「武」とは、「戈(ほこ)を止める」と書く。私は昔から誰にも負けたくなくて、誰彼構わずケンカをふっかけて、そんな事で困っていた時もあるが、今は少しだけ違う。そんな事もしないように気をつけている。そもそも気が小さいからすぐに強がるんだろうけれど。とても惨めだ。だが、アブさんの言う通り、まさに武道は「争いを止めるための道」なのだ。今ならば、その事が少しぐらい分かる。昔よりは少しぐらいは。だからこそ久しぶりに柔道がやりたくて仕方がないし、柔道着を見ると、あのザラザラとした衣服の感触が妙に懐かしくなる。
野球選手を引退して暫くした人達も、やはりまたユニフォームが着たくなるのだろうか。あの、アンダーシャツの袖にまた腕を通したくなるのだろうか。
わたしの今のユニフォームは、とりあえずは背広だ。レッスンの時などは、全くオシャレ感に欠けるクソみたいな私服だけれども。
でもやはり、「さあ演奏だ」という気持ちで背広に袖を通すと、それは柔道をしていた時に「開始線で礼」と言われた時の気持ちに近いものになる。
ユニフォームというのは悪くないだろ、と私は思う。
だけれども、タキシードなんぞ着たくない、というのも、これまた正直な所だ。
レッスンが一件だけあり、池袋に向かう。
池袋、というのは周知の通り東京にある街の地名であるが、所謂「都会」である。私は個人的には決して好きな街ではない。池袋のみならず、新宿、渋谷。都会の風情は私の性に合わないのだ。
しかし、池袋という街を闊歩する人々と、我が街東京の極東である小岩の人々とは、明らかに風体としては異になる。それは小岩に限らない話なのだが、つまり、「非都会」の人々と「都会」の人々とは風体において少なからず差異がある、という事だ。
有り体に言ってしまえば、都会を闊歩する人々はわかりやすく「着飾って」いる、非都会に暮らす人の大半はそうではない、個別の例外的な事例を考慮の外に追いやれば、つまり一般論で話せばそういう事になる。
時に都会の着飾った人々は、「オシャレ」などという言葉で賛美されるが、私にはそれがまるでわからない。池袋(都会)を歩く女性達の出で立ちは、私にはとても良いとは思えないのだ。少なくとも、私の両の脚の間(別名:股間)に具備された「マグナム」という名のレーダーは、ぴくりとも反応しない。老い、であろうか。いやいや私はまだまだ30歳、これからの男である。ならばこれは如何なる事であろうか。
世界的な賢者である私は、すぐに一つの真理に辿り着いた。私にわからない事と言えば、高校一年生以降の数学ぐらいのものだ。私ほどの賢者になれば大抵の事はわかってしまう。
端的に言ってしまえば、それは単一化された美に対する私の拒否反応である。
色彩を欠いた絵画のように、或いは抑揚のない平面的な音楽のように、そこにある美は極端に単一化され、多様性を拒絶する。私は自然とそういった価値観の存在形態に対して忌避を覚えていたのだ。
いつ何時も他人からの視線に晒されているやも知れぬ。だからこそ見られても恥ずかしくないように華美な服装に身を包み、化粧を整えて身嗜みを、という気持ちはわからなくはない。私とて他人からの視線(客観)を完全に自意識の外に追いやるのは不可能に近い。あらゆる都市生活者にそれは共通の認識であろう。
しかし、そういった事を考慮に入れて猶、私は「着飾った人々」に「わかっておらん」と苦言を呈さなくてはならない。
着飾る事は決して悪い事ではない。しかし、それは「たまに」で良いのだ。
わかり易い例えをしよう。
野球のピッチングを頭に思い浮かべて頂きたい。投手が放った渾身のストレート、それが打者の内角ぎりぎりの所にずばっと決まり見逃し三振、そんな光景を眼にした事がある人は少なくないだろう。
これに際して、「内角のストレートを見逃し三振」というのはあくまでも結果である。結果にはほぼ全ての場合において「過程」が付随する。
内角のストレートを見逃したのには、それに対する布石があったのだ。その何球か前に、ストライクゾーンから外角のボールゾーンに逃げていくようなスライダーが投じられてはいなかっただろうか。いた筈だ。私の言う事なのだから間違ってはいない。私は間違った事を言う時以外は常に正しい事を言う。その残像が打者の脳裏に残っていたからこそ、内角のストレートがボールに見えるのだ。それでついつい見逃してしまったのだ。
もし仮に投手が同じようなコースに同じようなボールばかりを放っていたら、その内角のストレートは無惨にもライトスタンド上段奥へと突き刺さっていた事だろう。もしもその時の打者が前田智徳ならば、ボールは確実にスタンドに運ばれている。間違いない。同じような攻めを続けてはいけない。これはピッチングの原則だ。
ならば、「着飾る事」も、勝負所で着飾れば良い、という事になる。
普段は洗い晒したTシャツにジーパン、足元はスニーカー、化粧はすっぴん。そのような女子がいたとしよう。普段はあまりの仕事の忙しさから着飾る事もままならない。化粧をする時間も碌に無い。それでも「生きていく」為に、一生懸命に働いて来た。気が付けば齢も三十を越え、目尻にも幾筋かの皺が出て来た。
そのような女子が、ここぞという場面で身に纏う、例えば爽やかなワンピース、そして着飾った自らへの若干の照れを内包した苦笑。イマジン想像してごらん。その破壊力たるや、まさに核兵器クラスの愛らしさである。
だからこそ、私は簡素にして質素である女性、これを愛でたい。その奥には無限の可能性が秘められているのだ。外角に逃げるスライダーを放れるからこそ、内角の渾身のストレートが生きる。いつでも化粧をしてフリフリの服を着ている女など、何もわかっちゃいない。すっぴんこそが最大のオシャレである事に何故気付かない。気付けないのか。気付きたくないのか。気付く度胸もないのか。声を荒げて憤りを表したい。
都会を歩く度に胸にその違和感を抱く。
着飾るなとは言わない。しかし、それはたまにで良い。そうでなければ、着飾った時のありがたみが薄れるではないか!と。
ちなみに私の家には私と同じ「福島」の姓を持つ女が一人暮らしている。本人のプライバシーの為にN美子という表記に留めておきたい。この奈M子であるが、まあ見事に化粧をしない。たまに化粧をした折には、私も「おお、奈美K、まるで別人だね!」と言ってしまう。
良いんだ、普段から化粧をして着飾ったりしなくても。
たまにするから、可愛いんじゃないか。
私は強くそう思うのである。
Tシャツを二枚とジーパンを二本買う。近所の洋服屋が店じまいの売りつくしセールをやっていたので。なかなかに安く買えた。
洋服屋の店員のネエチャンというのは、何故あんなにもナイスな香りを撒き散らしているのだろうか。香水だかシャンプーだかフェロモンだか何だかは知らないが、兎に角ナイスな香りがする。仕事から帰ってきたばかりのウチのカミさん(奈美子)などは、純粋な混じりっ気なしの「皮脂の香り」しかしないと言うのに。店員のチャンネーがとても良い匂いをさせていたので、○○○が×××してしまった。(自主規制)
さて、私は洋服を買いに行くのが嫌いだ。皆さんはどうだろうか。
「趣味はファッション」などとぬかすナオン(雌)が稀にいるが、そんな文言を聞いた時には「オマエはドン小西か!」と突っ込みたくなる。少なくとも話が合わないのは必定だ。服なんてものはチンコが隠れりゃそれでいいんちゃうんかい、と言いたくもなるが、ナオンにはコチンが備わっていないのでそれも叶わない。残念無念。
では何故服を買いに行くのが嫌いかと言うと、一つには「恥ずかしい」からだ。
私は、冗談じみているというか、ユニークというか、不整合というか、だいぶ「面白い顔」をしているという自覚がある。つまり「ブサイクさん」である。
服を買いに行くと、「おいおいおい、ブサイクがどんだけ着飾ったって変わんねーって。オマエいっちょまえにオシャレとかしようと思ってるわけ?救えねーな」と周囲から思われているのではないだろうかという被害妄想の誇大妄想に捉われる事となる。シャツを吟味している時、ジーパンをチョイスしている時、後方から店員に「お客様、いえ、ブサイク様、ブサイク様の場合、何を着たって同じでございます」と言われそうな気がしてならない。
こういった事は、実際に起こった事ではない。だが、間違いなく周囲の人間は私に対しそう思っている。だから洋服を買いにいくのは嫌いなのだ。
もう一つ、私が洋服を買いに行くのが嫌いな理由がある。それが、「裾上げ」である。
人間には二種類の人間しかいない。足が長い人間と、足が短い人間だ。
私はその内どちらに属すかと言われれば、残念ながら「足の短い人間」の方だ。
ジーパンを買う時に、私はブサイクであると同時にデブであるので、サイズは大きめのジーパンを買わなくてはならない。今日履いてみた所、32号というのが私のサイズだった。いやはや、デブ以外の何物でもない。
デブ用のジーパンと言うのは基本的には「大きな人向け」のジーパンであるため、裾も随分と長い。裾を詰めていない状態のそのジーパンを私が履くと、完全に「殿中でござる殿中でござる!」になってしまう。どれだけ余るんだよ、と。
なので普段履くためには必ず裾上げをしなくてはならないのだが、この切り取る布の量が半端では無い。おそらくは小学3年生ぐらいの子供の長ズボンを作れるくらいに切り取らなくてはならないのだ。
「こんだけ切るんだったら、更にもう1000円ぐらい割引してくれても良くない!?」と私は心の奥底で激しくシャウトするのだが、口には出さない。
口に出したら最後、「オマエ、ブサイクの分際で服なんて買いに来て更にその上でゴチャゴチャ言ってんじゃねえよ!ア!?」と店員に怒られるからだ。なので、私は死んだ魚のような目をしながら「あの…ここの位置で裾上げして下さい…」とそのズボンを店員に差し出すのみだ。
差し出されたズボンは「すわ、半ズボンか!?」と驚愕するほどの丈の短さになる訳だが、私の足の長さにはそれが丁度良い塩梅でフィットしてしまう訳だ。
まあ良いや、ジーパン二本で6000円、Tシャツ二枚で1600円、しめて7600円のお買い物だ。それほど高い買い物でもないし。
帰ってきたカミさんに「おい、てめえ何無駄遣いしてんだよコラ」と怒られるのは火を見るよりも明らかなので、ご機嫌を取る為に晩御飯の料理を今から作ります。本日の献立は、肉じゃがと納豆ご飯と味噌汁です。あとは、チャーシュー用の肉が安かったので買ってしまったので、チャーシューを作ります。今は肉じゃがをコトコトと煮込んでいるところです。
西小岩きってのオシャレさんである私は、本日オシャレさん御用達のブティックであるユニクロでジーパンを購入した。
腹回りが82cmもある事に驚愕し、尚且つ「これもう一本ズボン作れんじゃね?」というほどに多量の生地を裾上げカットをしたが、ともあれこれで今日から私の渾名が「ジーパン」になる事が決定した。
「よう、ジーパン、どうだい、今度のヤマ(事件)は?」
と気軽に声をかけてくれれば、私もそれに応えて
「おい…ちょ、どうしたんだい…なぁ、どうしたんだい……」
と呟いてから、自分の腹回りの肉をつまみ、刮目して一言。
「なんじゃこりゃああああああああああああああ!!!!!!!!」
と激しく叫ぶだろう。
なあ…まだ太りたくねえよお…太りたくねえよお…
でもラーメンうめえよお…
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