命日

2012年3月16日 (金)

吉本隆明さんの訃報

拙いながらも、音楽をする時に心がけている事が二つあって、一つは「よく考えながらやろう」という事。勿論、聴いて→感じて→それを考えて、という行程もそこには含まれる事が多いのだけれど、とにかくまずは「考えてやってみよう」という事。出たとこ勝負になる事もある。けれどそれは、色々考えた時に「今は出たとこ勝負にした方が良いんじゃないか」という判断をした時。全ての時がそうな訳ではない。

「よく考えながらやろう」というのが一つの指針。それともう一つ。「なるべく、出来るならば100%、嘘はナシでいこう」という事。思った事を出来る限り正直に音として出す。きちんと実感を伴わせて、それから変にカッコつけたりせずに。

これはやはりなかなかに難しくて、ついつい余計な所でカッコつけたりする。余計な音を出してしまったり、或いは逆に余計な沈黙を作って思慮深そうなフリをしてみたり。

そういう事ではなくて、本当に嘘の無い音というのを出せるように、そうやって音楽と向き合えるように、というのが私の一つの理想だ。今後どういう風に変わっていくのかはわからないけれど、おそらくこの二点に関しては変わらないのではないかな、という風に思っている。

そうやって音楽と向き合おうと思うに至ったというか、きっかけとなったのは、吉本隆明という人のせいだ。

吉本隆明。思想家だとか詩人だとか評論家だとか色んな肩書きがあるが、私にとっては「ものすごく一生懸命考えて、そしてものすごく正直で嘘のないオッサン」である。

何回かこのブログでも彼の事を書いている。

一つはコチラ

音楽を始めるずっと前から、私は彼の著作群に触れていた。そもそも音楽を始めたのが私の場合は遅かったから。中高生から20代の前半ぐらいまで、彼の著作を色々と読んだ。『共同幻想論』だとか『言語にとって美とは何か』だとか言ったようなイカついタイトルの著作も多くて、そういうのは背伸びして読んだりもしたけれど、勿論内容は一割も頭に入ってこなかった。何故なら難しかったから。それでも読んだ。とりあえず最後まで、と思いながら我慢して読んだ事も少なくなかった。

私は市井のしがない音楽家であるから、彼の事について詳しく何かを述べる術は持たない。そういうのは評論家とか文芸家とかそういう連中に任せておいたら良い。だからこのブログのコメント欄などに「吉本の思想は既に終わっていて」だとか「原発推進のボケ老人」などと書き込まれたとしても華麗にスルーさせてもらう。そういう議論はもうちょっと高尚な所でやってくれ。知った事ではない。

ただ、彼は私にとって特別な人の一人である事は間違いない。「真摯に思考して、徹底して正直である」という事は、すごくファンキーでヒップな事であるように私は思うのだ。

音楽を始めてから、その彼の真摯で正直な態度というのは、私にとって完全に一つの指針となった。ああ、そんな風におれも音楽に向き合おう、そう思った。

その吉本隆明が、今日、死んだそうだ。

87歳。年齢を考えたら仕方の無い事なのかも知れない。

けれど、やっぱり何かぽっかりと穴があいたような感じがあって、今はまだ「吉本隆明が死んだ」という実感が湧かない。

我が家の親父が彼の大ファンであるので、実家に行けば彼の著作や映像などは幾らでもある。これからゆっくり、彼の思考に触れていこうと思う。

吉本さん。

お疲れ様でした。

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2012年1月31日 (火)

今日ぐらいは思い出しても良いかな

七回目の1月31日。

師匠の市川修が死んでから、今日でちょうど丸六年が経つ。

わざと思い出さないようにしている時もあるけれど、やはりこの日が近くなると嫌でも色んな事を思い出す。

病院の屋上でタバコを吸いながら、「意識戻らねえかなあ、元気になってくれねえかなあ」なんてぼんやり考えていた事とか。

今日は良いかな。

色々思い出してても。

どうしてもちょっと感傷的になっちゃうのが嫌なのだけれど。

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2011年6月 1日 (水)

無題

関西から一つ訃報が届く。

やり切れない気持ちになる。

彼とピアノを一緒に弾いた事があった。

あまりにも早過ぎる。

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2011年1月31日 (月)

六年目の一月三十一日

六年前の今日、一月三十一日から、この日が私にとって特別な日になった。

市川修という男が死んだ日だからだ。

彼がいなかったら、彼に会っていなかったら、間違いなく音楽で飯を食おうなどとは思わなかった。今の生活はしていなかった。

まだ私には充分な実力も無くて、元より学歴も後ろ盾も皆無だから、やはりこの世界では色々と苦労をするけれど、何かの偶然から市川修という男と出会って、彼の人間に惚れて、挙げ句に同じ道を少しずつだけれども歩ませてもらっている事を、私は、嬉しく思う。

市川修さん、俺を生かせてくれてありがとう。

死んじまったから、もう遅いのかも知れないけれど、俺は貴方にずっと感謝したい。

出来れば、少しずつでも恩返しもしたい。

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2010年6月23日 (水)

再び福岡へ

祖父が他界する。

私には父方と母方で、合わせて二人ずつの祖父と祖母がいた訳だが、これで一人もいなくなった。

亡くなった祖父も、実に90歳。人間の一生としては決して短い方ではない。この世を去ってしまった事に勿論寂しさはあるが、それだけの年数を祖父が生き遂げた事に、それなりの感銘もある。

10日ほど前に、まだ彼の意識がある内に、私はカミさんと共に彼の元を訪ねた。

病室のベッドに横たわる彼に、「ジイちゃん、剛だよ、わかる?」と聞くと、彼は頷いた。

「結婚したんだよ、コレがカミさん」と傍らの奈美子を紹介した。

彼は私と奈美子に一瞥をくれた。

「お互いに…」と口を開いたが、言葉が次がなかった。

伯母が、「お父さん、何?『お互いに、仲良く』?」と尋ねると、祖父が笑顔で頷いた。

「うん、仲良くやるよ」と私が言った。

私には、それが彼の最後の言葉となった。

わかりました。仲良くやります。色々ありますが、頑張って夫婦仲良くやっていきます。

ジイちゃん、ありがとね。

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2010年4月 7日 (水)

二流の美学

木村拓也死去の報。無念、と合掌する。

彼の回復を祈っていた。倒れ方を見るに「凡そ無理だろう」とは思っていたが、それでもどこかで奇跡を信じていた。ただ、生きて帰って来てほしい。そう、思っていた。

クモ膜下出血。突然、人は死ぬ。恐らく本人は、死を意識する暇もなく、唐突に死ぬ。

木村拓也の場合は倒れてから5日、私の師匠は19日間だった。

亡くなるまでの間、傍にいる人間は「死」を意識する。とても身近なものとして、それを捉え始める。心底から回復を祈っていても、冷静な意識の中ではそれが難しい事も理解している。眼前の愛しい人が間もなく死ぬという事を意識させられる。本当に、それは好むと好まざるとに関わらず。

木村拓也の家族の気持ちが少しだけわかる。

以前にも書いたが、彼は決して「プロ野球選手として突出した何か」を持っていた選手ではなかった。決して、一流の選手ではなかったのだ。

だが、特筆すべきは彼の美学、そう、「二流の美学」である。

嘗てアテネ五輪の日本代表として召集された彼は、試合の攻守のみならず、コーチャーからブルペンキャッチャーまで、「雑用」と揶揄されかねないほどまでに献身的にチームを支えた。笑顔で。嫌な顔を一つせずに、である。

当時の所属球団、広島カープを代表し、そして日本を代表してアテネに向かったにも関わらず、彼はそうした「裏方」に徹した。

球団に戻ってからも、当時若手の売り出し株であった東出や尾形のバックアップを担当した。彼はそういったエピソードには事欠かない。

それに際して考えて頂きたい。

それは彼が単純に「良い人」だったからなのだろうか。

勿論それもあるだろう。木村拓也は、随分と人懐っこい、明るい性格の持ち主だったと聞く。そのチームへの献身的なエピソードも、彼という人間の性質の一つの所産だと考えても決しておかしくは無い。

だが、私はそういった部分から、性質とは別の、彼の独特な美学を感じずにはいられない。

類い希なる「二流の美学」である。

与えられた場所で全力を尽くす。人が面倒くさがるような事を率先してやる。それが何であろうと、兎に角「何でもやる」。

そうした内に、周囲は彼の存在の大きさに気付く。

大丈夫、何があっても拓也がいるから、と。

何の取り柄もなかった筈の男が、いつしか決して欠く事の出来ない存在になっているのだ。

そもそも、プロ野球選手になるような人間達は、幼い頃から「エースで4番」というのが相場だ。野球がとびきり得意な人達が選ばれる職業が、プロ野球選手であるのだ。

それがプロに入った瞬間に、自分はワンオブゼム、「その他大勢」の内の一人である事に気付かされる。それはそうだ。何故ならば、周囲の人間たちも皆「野球がとびきり得意な人達」なのだから。

しかし、そこで挫折を味わい落ちていく人間と、そこから這い上がる人間と、二種類の人間に大別される。木村拓也は、圧倒的に後者だった。彼は「超二流」として、自らの存在をプロ野球というフィールドの中で燦然と輝かせた。

緒方孝市の引退試合で放った笑顔のセンターフライ。昨年の巨人戦で構えたキャッチャーミット。泥臭くて生々しい数々のプレー。

木村拓也という「超二流」の野球選手がいた事を、私は決して忘れない。

お疲れ様、そしてありがとう、木村拓也。

あなたのプレーが、もっと言えばあなたという野球選手の在り方が、大好きだった。

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2010年1月31日 (日)

信州から

信州長野の蕎麦(そば)よりも

あたしゃアナタの傍(そば)が良い

という事で只今信州は伊那、小黒川のサービスエリアにいます。高速バスで京都に向かっております。

普段は東名高速を通る便で行くのですが、本日は中央道を通って。

長野を通って南アルプスの山々が雪化粧を纏っているのを見ながら、なかなかどうして風流でございます。

今日は師匠の命日。もうかれこれ四年が経つのですね。

師匠を思ってたくさんの人達が一同に介する場に私も末席ですが参加します。大変光栄です。

空から射す太陽の光が、何かの祝福の光のようにも思えます。

長野はとても寒いです。

時が経っても、いつまでも思い出にならない事もあるものなのですね。

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2009年1月31日 (土)

1月31日

三年前の今日、あなたが死んだ。

全く現実味もなかったけれど、やっと最近あなたが死んだっていう事をリアルに受け止めるようになってきた。だからあなたの事を少し。

あなたが、死んだ。

ぼくは、自分でも不思議なくらい淡々としていた。最愛の人が事切れる瞬間を目の当たりにしていたにも関わらず、冷静だった。

心電図の規則的なリズムを刻む電子音が徐々に遅くなり、終いにはぴいいいいっというロングトーンに変わった。

ああ、死んじゃった。

そう、思った。

たったそれだけだった。

1月12日に頭の血管が切れて倒れてから、ぼくはずっとあなたの傍にいた。だからかも知れない。日々、「良くないですね」なんていう医者の言葉を聞いて、出血のせいでばんばんに腫れた脳のCTを見て。今更死んじゃいましたって言われた所で動じようがない。

だから死んだ時だってとても冷静だった。

ひょっとしたらそれはとても幸せな事だったのかも知れない。ぼくは単純にあなたの近くにいたかったんだもの。死に目まで見れたし、あなたの骨も食べた。幸せかも知れない。不遜に言うけれど、ぼくは誰よりもあなたの事を愛していた。

ぼくはあなたに人生を動かされた。

あなたに会ってなかったら、きっとピアニストなんかになっていなかったと思う。うじうじと、面白いんだか面白くないんだかわかんないような人生を生き続けていたかも知れない。

あなたは、つまらない人間のつまらない人生を、変えてしまった。何だかうきうきするもの。お陰で今日もうきうきしてた。

ぼくはあなたが死んだ時に、反射的に「京都を出よう」って思った。あなたの素晴らしさを、ぼくが世界中に伝えてやろうと思った。

まだまだピアニストとしても人間としても未熟だけれど、ぼくはこれからも日々精進して、もっともっと良いピアニストになります。他人からも世間からも評価されるように頑張ります。

人から褒められたその時に、エラそうに言ってやるんだ。

「ぼくの師匠は市川修ですよ、当たり前じゃないですか」

って。

だから、大丈夫。

早いですね。三年間。

世界一のピアニストはねえ。

市川修で決まりなんだよ!

うん

何だ

まあ

あれだ

今日はちょっと暗いけど許してね。

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2008年5月17日 (土)

Dr.Jimmy Slyde

一週間ほど前、夜中、0時ぐらいだったと思う。タップダンサーのTAKAこと川村隆英氏から電話があった。

「9月、ツアー行くよ!」彼はハイテンションで私にそう告げた。「了解です!がんばりましょう!」私もハイテンションで答えた。

TAKAさんは言っていた。彼の師匠のDr.Jimmy Slydeの事を考えて、彼の事を想いながら今回のツアーをしたい、もう彼は長くないから、と。

身が引き締まる思いだった。中途半端な事は何一つ許されない、必死になってやらないと。私はそう思った。

そのDr.Jimmy Slydeが亡くなった、との事だ。ネットで見た。何と言っていいのかわからない。

ご冥福をお祈りいたします。

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2008年1月31日 (木)

拝啓市川修様

早いもので、あなたがこの世から去ってもう二年が立ちました。

そちらはどうですか。

こちらは相変わらずです。

誰かを傷付けたり傷付けられたり、誰かに助けられたり、たまには誰かを助けたり。当たり前のように毎日が過ぎて、当たり前のように過去ばかりが増えていきます。

あなたの書いた曲を、徒然によく弾いてみます。あなたがどういう意図で、どういう思いで音を紡いでいたのかは、ぼくには図りかねる部分もたくさんあるのですが、あなたの書いた曲は、激しさの中にもとても繊細な美しさがあるようにぼくには思えます。それはまるであなた自身であるかのようで、ぼくは弾きながらやっぱり嬉しくなってしまいます。

ぼくはまだまだ未熟なようで、つまらない事に腹を立ててみたり、前へ進めない事に苛立ってみたり、あまり人様に誇れるような生き方を出来ずにいます。

あなたはとても優しい人でしたね。

たくさん怒られた筈なのに、誉めてもらった事なんてほとんどないのに、ぼくは何故かあなたの優しい笑顔しか上手に思い出せません。

正直に言えば、あなたが死んだ事を、ぼくは今でも悔しく思っていますし、とても寂しいです。二年の年月が流れた今でも、割り切れていません。

寂しいですね。

寂しいです。

二年前の今日も、こんな寒い日でしたね。

もう少し、こっちでやってみます。また、見守っていて下さい。困った時ばかり頼ってしまってすいません。

でも、ありがとうございます。

2008年1月31日

福島 剛

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