集団という装置の中で人はいとも簡単に狂う
夏の高校野球の広島県代表として出場予定の広陵高校の暴力事件が報道されていた。
報道にはある程度尾ヒレがつくことを考慮に入れても、十中八九そのような事実はあっただろう。犯罪行為の中身に関しては詳細までわからないが、有無に関してはまず間違いなくあっただろうと判断している。
そういうことが多かれ少なかれ様々な場で起きていることを私自身も直接的あるいは間接的に目撃しているからだ。
学生時代には私はずっと柔道部だったのだが、強豪校の生徒が試合会場で先生や先輩から殴られているところは何度も見た。
私が通っていた学校は中学から大学に至るまで全く強豪校ではない、それとは反対の弱小校だったのでそういった派手な体罰や暴力はなかった。とは言え、そういった重大な事件にいつか繋がりかねないまだ発芽していない種のようなものはそこかしこにあった。それに対して私はそれほど深刻には考えていなかった。「ま、ウチなんてヌルいとこだしな」ぐらいな感じで。
私の見た限りでは、少なくとも私の若かった時代には学生柔道界には暴力や体罰がはっきりと存在した。今はそうでないと良いのだけれど。
集団の中で人はいとも簡単に狂う。
かつて新しく明るい社会の創造を夢見た若者たちが単なる犯罪行為集団へと変貌したのは連合赤軍やオウム真理教の一連の事件を辿れば簡単にその一例を探し出すことが出来る。自分たちに反対するものやあるいはその仲間ですらも暴力により排除し殺害することもたやすくなるのだ、正義という名の「口実」を与えられさえすれば。
運動部などもその構図の下にある。「より高いレベルで戦うために」といった類の「口実」によって、人は暴力すら厭わなくなる。
集団という装置に口実が付与された時に、それは人を狂わせる装置として機能し始める。そういった装置の最高峰にあるのが戦争だ。
暴力事件はいけない。戦争はいけない。
それはもちろん間違いのないことであるのだが、その前に「我々はそういった装置の中に組み込まれた時にいとも簡単に狂うのだよ」ということをこれ以上ない「恐怖」として植え付ける必要があるのではないだろうか、と思った。
自分が狂っていってどんどん自分でなくなっていくこと。私は何よりそれを恐れている。
今日の演奏動画。
Jerome Kernの作曲した『The Last Time I Saw Paris』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。
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