シジミの身を食べるのか、食べないのか
朝、家で蜆(シジミ)の味噌汁を飲みながら考えたことである。
シジミの味噌汁のシジミの身の部分は、食べる人と食べない人はどういう割合なのだろうか。
あんな小さい身をいちいち貝殻からはずして食べてられないということで食べない人が一定数存在することは知っている。もちろん「いや、ちゃんと食べられるじゃん」と言ってちまちまと貝殻から身をはずして全て食べる人もいる。私は当然のように後者だ。
そんなもんそれぞれ好きにしたらいいというのが大前提である一方で、ここには何か大きな精神的分断があるのでは、ということに思いを巡らせた。シジミの身を食べない派と食べる派の間にある精神的分断である。ちまちまとシジミの身を食べながらそう思ったのだ。
食べない派は、食べる派のことをどこかで軽蔑しているかもしれない。あんな小さな身まで一つ一つ食べるなんてみみっちい、意地汚い、と。
対して食べる派も食べない派に対して侮蔑の感情を持っている可能性は否定できない。食べられるものを食べないなんて命に対する感謝の気持ちが足りない、などと。
双方の言い分がそれぞれ正当性を持っている以上この議論は並行線で終わる。いや、終わってほしい。
しかし我々はシジミの身を食べるのか食べないのかということによって精神的に分断される可能性が大いにあるという事実に私は愕然とした。シジミの身をちまちまと貝殻からはずしながら。
そうだった、私はみみっちくて意地汚い人間だった。
これからは(これからも)そのような汚辱にまみれながら下等生物として慎ましく生きていこうと思う。
シジミの身は食べるけれども。
今日の演奏動画。
John Davenport, Eddie Cooleyの作曲した『Fever』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。
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