音楽の練習と読書の関係性
音楽の練習について少し。
私は音楽の練習の内容を大きく二つに分けて捉えている。
1. これまでにやってきたことの精度を上げる練習
2. これまでに出来なかった(知らなかった)ことを出来る(知る)ようにする練習
の二つである。
この二つのバランスを常に考えている。
この二つの練習は相反する練習では決してない。1の練習を続けている内にこれまでに出来なかったことが出来るようになることはあるし、2の練習をしている内にこれまでやってきたことの精度が上がるということもある。二つの練習はとても密接に結びついていて、どちらが欠けてもならない。
初学者の練習はおおむね2になる。だってまだ何も出来ない(知らない)のだから。それは当たり前のことだ。
だが、それがしばらく経っていくつかの出来る(知っている)ことが増えてきた時に、必ず1の練習が必要になってくる。
私に関して言えば、自分で「出来る(知っている)」と思っていることの大半は、ちゃんとは出来ていないことがほとんどだ。一冊の本を通読し終わったのちに「この本のことはもう大体知っている」と思っても大部分において読み落としがあるように。
私は読書に関しては娯楽としての側面が強いので、ある特定の本以外は何十回も読み直すということは多くないのだが、それでも読み返すことによって新たな発見がある。
もしくは違う作品を読んでいる時に「こないだ読んでたあそこの部分はこういうことだったのか!」と思うこともある。
なので音楽においても自分の「出来る(知っている)」という感覚は一切信用せずに、「出来たつもりになっているんだろうが多分ちゃんと出来てない部分が大半だぜ」と思うクセがついている。
最近の読書でもドストエフスキーの『罪と罰』だとかシェイクスピアの『ハムレット』だとか夏目漱石の『それから』だとかヘミングウェイの『老人と海』だとか、10〜20代の頃に読んだ本を読み返したが、新たな発見だらけだった。私はそれらの本のことをほんの数%も理解していなかった。再度読み返したらまた新たな発見があるはずだ。しばらくは読み返さないけど。
音楽の練習と読書って似てるなあと思ったのである。
ちなみに今は町田康の小説(エッセイ?)をげらげら笑いながら読んでいる。いいのだ、娯楽だから。
今日の演奏動画。
Charlie Parkerの作曲した『Another Hairdo』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。
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