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2025年2月18日 (火)

九州の男尊女卑文化とヒンドゥー教のカースト制度について

最近聞いた話の中で頭に残っていた話が一つあって、でもそれをどこで誰から聞いたのかは覚えていないのだけれど、話は覚えている。

日本の中であれこれと移り住んだことがある人が言っていたのだが「九州がキツかった」という話。

私は母方の親戚のルーツが九州にあるので九州にはそれなりに馴染みが深く「そうですかね、ぼくはわりと九州は好きなんですけど」と言ったような記憶があるのだが、その時の彼(彼女?)が教えてくれたその理由にはなんとなく納得した。

曰く、「九州に根強く残る男尊女卑の文化がどうにも性に合わなかった」とのこと。

ああ、確かにそういうところはあるかも、と思った。多くの九州の家庭では女性が台所に立ち、男性は居間で座っているだけ、という光景はそんなに珍しくない。そういう部分にも象徴されるように、九州には未だに男尊女卑の文化は根強く残っていると思う。現代の男女平等の価値観からすればそれは確かに違和感でしかない。

で、ここからが問題の本質なのだが、「それでうまく回っている部分もある」ということ。

九州のそういった価値観の家庭においては、確かに女性が細々とした仕事をして、男性は外に出て働いてくる。その構図には私も疑問があるけれど、多くの女性が「でも結局実権を握っているのは女性で、男性はその手のひらの上で遊ばれている」と思っている部分もある。女性はそういう部分で自らの矜持を保ち、そして男性もそこに対して畏敬の念を抱く。

そうではない価値観を持つ私たちからしたらそれはある種異様なことなのだけれど、そこがそれでうまく回っているのならば「よそ者」の価値観を持つ我々がそこにどうこう言うのはどうなのだろうか、ということを思ったのだ。

これに似たような構図でヒンドゥー教徒のカースト制度がある。

生まれながらにして身分の高低が決まっており、低い身分(カースト)に生まれた者たちはその一生を通じて差別を受け続けるというカースト制度は、我々の価値観からすれば到底看過できないものであるのだが、このカースト制度の根っこには彼らが信じている輪廻転生の考え方がある。

人間は死ねば別の人間に生まれ変わる、人間はその生命の輪廻の中で生きているという価値観があるからこそ、現世でのカーストは前世での行い(カルマ)によって決定されるのだというカースト制度の根っこにあるその考え方を、輪廻転生をあまり信じていない私が「それはおかしくないか?」と感じるのは当然なのだが、ヒンドゥー教徒の彼らからしたら輪廻転生を信じていない方が信じられないのだ。

価値観の多様化について言及されることが多い昨今において、マイノリティやこれまでにあまりなかった価値観に対して寛容にあろうぜというのは私も強く思う部分ではあるのだが、旧来の価値観もまた多様性の一種として尊重されるべきなのだろうか。それともそんなものは全て滅びていってしまえば良いのだろうか。

私は個人的には男尊女卑の文化にもカースト制度にも反対なのだけれど、「そこはそこでうまく回ってるならそれはそれで良いのかな、おれがとやかく言うことでもないのかな」と思う部分もある。ぶっちゃけよくわからない。

そんなことを昨夜寝付けずに考えていた。

あと、「九州に残る男尊女卑の文化がキツい」という話を誰とどこでしたのかが思い出せなくて悶々とした。マジでどうなってるんだおれの記憶力。


今日の演奏動画。

Cole Porterの作曲した『I Love Paris』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。

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