「不快から逃れる」という行動原理
京都に向かっている。
この時期なのでもちろん青春18きっぷの旅だ。ほんの9時間ぐらい電車に乗り続けているだけで、片道2410円で東京から京都まで行けてしまうのだから青春18きっぷはホントにすごい。ありがたい。
今日は特に演奏の予定もないので、今日中に京都に到着すれば良い。そんなに時間に急かされていないので、朝も少々寝坊したが余裕をカマしながらいつものように朝ドラを視聴してから家を出た。
上野で朝食として「つるや」のたぬきそばを食べた。460円。
上野駅から電車に乗り込んだ。上野東京ラインが東海道線になるやつ。この電車は終点が小田原バージョンと熱海バージョンがあるのだけれど、当然終点熱海バージョンが大当たり。乗り換えをしなくて済むから。今日乗り込んだのは終点熱海バージョンだった。ラッキー。
横浜を過ぎた辺りで座れたら良いなーと思いながら立っていたのだが、新橋で目の前の席が空いたので座れた。しかもロングシートの端の席!これは荷物の置き場所にも苦労しない席なのでとても良い!これまたラッキーだった。
だが問題はここからだった。
電車が横浜を過ぎて戸塚に差し掛かったところで、杖をついた初老の男性が乗り込んできた。きっと足があまり良くないのだろう。男性はゆっくり歩いていた。
車内の座席にはざっと見渡したところ空席が無かったので「これは席を譲らなきゃマズいか」と思ったのだが、かなりのベスポジ席を確保出来たのでここを手放すのは少々手痛いと思いつつ「誰か他の人が席を譲ってくれねーかなー」と思って周囲を伺っていたのだが、誰も席を譲る気配がないので「じゃあ仕方ねーか」と思ってその男性に席を譲った。
結局男性は私に軽く礼を言いつつ平塚で降りていったので、私は30分ほど立っていただけで、そこからはまた元のベスポジ席に戻った。
その立っていた30分の間に考えたこと。
私は「良いことをしたかったから」あるいは「私が良い人であるから」という理由で男性に席を譲ったのではない。私は私の中に生じる「不快」から逃れる為に男性に席を譲ったのだ、とつくづく感じていた。
もしも私が席を譲らなかった場合、その男性は杖をつきながら私の近くで立っていただろう。
私にはそれが非常に不快なのだ。
もちろんその男性が不快なのではない。私は私に対して不快なのだ。目の前で座席を必要としている人がいるのに、自分の快適さを優先させてのうのうと座り続ける自分が不快なのだ。
そういった自分への不快さと、しばらく(ひょっとすると終点熱海まで)立ち続けることの二つを天秤にかけた時に、私は自分への不快感から逃れることを優先した。
この「不快から逃れる」というのは、様々な場面での行動決定の理由になっているぞというのがその時私が考えたことだ。
身体の不自由な方に席を譲るのは私が「良い人」で「良いことを出来る」からではない。単に私は「席を譲らない自分」という自分への不快感から逃れる為に席を譲っているだけだ。
それと同様に私は様々な場面で自らの不快から逃れることを優先しながら行動決定している。
ということは私は極めて自己中心的で利己的で身勝手なのだ。基本的に自分のことしか考えていない。
私にとっては「席を譲る」という行為は、偽善ですらない。極めて自己中心的かつ利己的で身勝手な行為なのだ。
ということを考えながら、「でも自分のことを良い人だとか正義の人だと思ってるやつに比べたら自分のことを身勝手でジコチューなバカと思ってる方が遥かにマシだからこれでいいや」と思った。
私は身勝手でジコチューな愚か者であるが、そこまで自分のことを嫌いではない。
そんなことを思った。
今日の演奏動画。
Anna Sosenkoの作曲した『Darling, Je Vous Aime Beaucoup』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。
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