自分の好きなものを人に紹介するという行為
自分の好きなものを人に教える機会というのがたまにある。きっとそんなに珍しいことではないはずだ。
どこそこのラーメン屋が美味しいよだとか、どこそこの景色が今ちょうど見頃だよだとか、この音楽が素敵だよだとか。
もちろん人から教えてもらうのも嬉しい。自分の知らない素敵な何かを教えてもらった時に「へー、そんなのあるんだ、今度是非味わってみよう」となるのはそれなりに幸せな瞬間の一つだ。
だが、先日一つ気付いてしまったことがあって、「自分の好きな何かを人に紹介する行為」というのは「そのものを好きな自分のことを知ってもらいたいという欲求」に裏打ちされている場合があり、ひいてはそれは「自分のことを知ってもらいたい」という一種の承認欲求に繋がるのではないだろうか、ということだ。
そう思ったのは人にピアノのことを聞かれた時のことであって、私は私が心から敬愛するピアニストAbdullah Ibrahim(以下アブさん)のことを紹介した。この人がものすごく良いよ、と。
私はアブさんのことを非常に深く尊敬しているし、ものすごく影響を受けている。私のこれまでの音楽家人生の中で間違いなく最も強い影響を受けたピアニストである。
ということは、アブさんのことを人に紹介するという行為には「私が好きな音楽を紹介する」という意味だけではなく「アブさんのことを愛している自分のことを知ってもらいたい」という意味も含まれるということになる。
誰かに対して「自分のことを知ってもらいたい」などと願うのは随分青臭くて恥ずかしいなと思うのだが、あるいは私は良い大人になってなお、誰かに「自分のことを知ってもらいたい」と願っているのかもしれないと思った。
人と人はそれぞれにみんな違って、それを分かり合う必要はないし、原則として分かり合うことは出来ない。「それぞれに違うんだ」ということを認め合った上で共存すれば良い。こういう考え方こそが私の根っこにあるはずなのだが、それでも心のどこかで他者に対して「理解」を求めているのかもしれないということに気付いた時に何だか妙に恥ずかしいようなこそばゆいような気持ちになった。
「分かり合えない」という前提の元に、それでも少しでも相互理解をしようと願うのはそんなに悪くないことなのかもしれない。
今日の演奏動画。
Jaco Pastoriousの作曲した『Liberty City』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。
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