身体は変わっても心はそうそう変わらない
今日の昼は久しぶりに近所の蕎麦屋「米むら」に行った。
鳥せいろそばの大盛り850円。非常に美味い。
香り豊かな蕎麦も美味いしつけ汁がまた素晴らしい。街の小さな蕎麦屋なのだけれど、とても好きな店だ。
若い頃は蕎麦とラーメンだったならば圧倒的にラーメンの方が好きだった。それも脂ぎったパワフルなラーメンが好きだった。いつでも大盛りを頼んでいた。
それがいつからか完全に蕎麦派になってしまった。
おそらく身体の変化なのだろう。中年になって代謝も落ちてしまって身体がそれほどの塩分やカロリーや油を必要としなくなってきたから、それに合わせて味覚も変化してきた。全体的に濃い味付けのものよりも薄い味付けを好むようになってきた。こればっかりは仕方ない。
こうやって身体には確実に変化が起こっているというのに、心の方は若い頃と比べてもあまり変化が無いのかもしれないということを最近は思い知ることになった。
数週間前の柔道の試合。
結局一回戦で初戦敗退してしまったけれど、その時の自分の気持ちの在り方に自分でびっくりした。
始まる前は「冷静にいこう。23年ぶりのトーナメント戦だ。まず一勝。できることを確実に」なんて考えていたはずなのに、試合開始が近づくにつれてそういう考えが吹っ飛んでしまった。心の奥底からどんどんと湧き上がる「やってやんよ、ブン投げてやる」という謎の闘争心。始まる直前は完全にそれしか考えていなかった。頭が沸いていた。
結局相手の方が一枚も二枚も上手で、脳みそがしゅんしゅんと煮立ったオッサンはコテンとやられてしまった。
終わった瞬間にも私は大人げなかった。「相手の方が強かった、仕方ない」とはならなかった。「くそっ!負けた!悔しい!」と、頭にあったのはそればっかりだった。悔しくて泣きそうだった。弱くて不甲斐ない自分に怒りすら覚えていた。
その後しばらく経って少しだけ冷静になった時に、こういった感情は10代の頃に一生懸命柔道をやっていた時から何一つ変わっていないことに気が付いた。もうすぐ44歳なのに。
若い頃みたいにすぐに誰かとトラブルを起こして揉めるようなことは劇的に少なくなった。けれどそれは性格の根本的な部分が穏やかになったわけではなくて、様々な場面における「対処の方法」をいくつか学んできただけだ。こういう発言をするとダサいとか、こういう振る舞いは誰にもプラスにならない、とか。そういうことをこれまでに生きてきて様々な失敗を犯していく中で学んできたのに過ぎない。
そういうケースバイケースの処し方が少しだけ上手くなってきているだけであって、私の性格の根本にある非常に憶病で幼稚でそれゆえに好戦的な部分は、何一つ変わっていなかったということを先日の柔道の試合で気付かされた。
対処方法という「鎧」でそういうダメな部分を普段は隠しているだけなので、あるいは性格の根本にあるそういう好戦的な部分は以前よりも過激になっているのかもしれないとすら思った。
「老い」により身体は確実に変化を遂げている。しかし心の部分はそう簡単には変わらない。これはヘタをすると一生変わらないのかもしれない。もちろんそのダメな性格を社会にアジャストさせていくための方策は一つずつ学んでいくのだけれど。
多分、若い頃に比べて一つだけ変化しているかもしれない心の部分は、弱い自分を認める強さは持っているということぐらいだ。
いつになったらちゃんとした人間になれるんだろう。
今日の演奏動画。
Richard Rodgersの作曲した『Manhattan』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。
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