足るを知る
昨日の登敬三さんとのデュオライブat cooljojo jazz+art、一生懸命に無い頭を振り絞りながら全力で演奏してきた。
フリーインプロみたいになる瞬間も多くてものすごく楽しかった。充実の時間だった。来てくれたお客さんやお店の長谷川マスターに大感謝。
次に登さんと演奏出来るのはいつかな。
そこまでまた毎日練習しよう。
今日は昨日から引き続き先日の発表会の動画の編集。やっと終わりが見えてきた。
今日仕事場を出て家に帰る時にアップロードボタンをポチっと押せれば後は勝手にパソコンがやってくれるはず。それで最後だ。やっとここまで来た。
今日は朝からこの作業にかかりっきりだったのだけれど、昼にアップロード待ちの時間が出来たのでそのタイミングで昼食を食べに行ってきた。今日も当然「ゆで太郎」へ。
三か月に一回、しかもその月初にだけ配られるゆで太郎クーポン券がこれからのゆで太郎生活を幸せに彩るということは以前のこの記事でも書いた。
そして今回のクーポン券はこちら。
実は昨日もゆで太郎に行って一枚クーポン券をゲットしてきたのだが、この配布期間は非常に短いのでこのチャンスに少しでも多くのクーポン券をゲットしておかなくてはならないので今日もゆで太郎に行ってきた。
そして今日のゆで太郎はこちらである。
430円のかけそばに昨日ゲットしたクーポン券からコロッケをチョイスして載せたコロッケそばである。
さて、ここで哲学的な命題にぶち当たった。
ご存知の通りゆで太郎は天かすが無料で入れ放題である。かけそばは常にたぬきそばになる。非常にありがたい。私はこれを「自動たぬきそば」と呼んでいる。
では、コロッケそばにも天かすを入れて「コロッケたぬきそば」にすれば良いのではないかというところなのだが、私は耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで天かすを入れなかった。
ここには非常に哲学的かつ形而上学的な思索がある。
そもそも私は非常に卑しく意地汚い人間である。しかも極度の貧乏性なので、無料で入れ放題の天かすは少しは入れたくなってしまう。入れ過ぎてはダメなのだ。つゆが重たくなってしまうから。けれど匙でひと掬いぐらいは入れたくなるのが底辺を生きる私の浅ましさである。
しかし入れない。
なぜ入れないか。
コロッケの味わいがボケてしまうのだ。天かすの味わいによりコロッケの衣の食感や染みだすジャガイモのうま味がよくわからなくなってしまう。
もちろんこう言うからには私はかつて「コロッケたぬきそば」をやったことがある。そしてやってしまった後に激しく後悔の念に駆られた。
「あれ?コロッケのうま味がよくわかんないな」と思った直後にやってくる激しい自己嫌悪である。
なぜおれは天かすを入れた。それがタダだからか。よくよく考えればコロッケと天かすの相性が悪いことぐらいわかるだろう。それでも入れるのか。おれはタダならば何でも良いのか。裏を返せば金がない金がないと言いながらも金に振り回されていることに他ならない。おれは金の奴隷だ。みみっちい、資本主義の犬だ!!!!
このように自分を罵倒するのである。
その罵倒を食事中にずっと続けるものだから、ゆで太郎を後にする時には「もう…死のうかな…」と思うぐらいには心身喪失している。
これは非常に精神衛生上よろしくない。
そういった経験を培った上で私はコロッケそばには天かすは入れない。
今日も非常に迷った。「ちょびっとぐらい入れちゃおうかな…」と。
入れちゃおうかなじゃねえんだよ!!!!入れんな!!!!
ということで今日は入れなかった。
芳醇なコロッケのうま味の染み込んだそばを啜りながら「足るを知る」とはこういうことなのだと思った。
これからもコロッケそばには天かすは入れない。
ただし、温泉玉子やワカメのトッピングの際には天かすが非常によく合う。これは入れる。
かき揚げが実に微妙だ。かき揚げも天かすも出自は同じ天ぷらであるので相性は悪くないのだ。ただしコロッケ同様にかき揚げの味がボケるのも事実。
これからもゆで太郎における哲学的な思索は続いてゆくのである。
何よりも重要なのは「足るを知る」ということである。
今日の演奏動画。
Hermeto Pascoalの作曲した『Rebuliço』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。
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