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2023年7月10日 (月)

意図やエゴから離れたところで弾きたいとずっと願っている

「あそこのG7というコードに対してなぜあなたはコードトーンではないE♭やD♭という音を出したのですか?」という問いがあったとして、それに対して

「トニックに繋がるドミナントコードなのでオルタードテンションとしての♭13thと#11thを弾いた」
と答えるのは”音楽理論“としてはかろうじて正解なのかもしれないが、“音楽行為”としては不正解だと思っている。

では私が何を正解と考えているかと言うと「わからない」あるいは「弾きたいから弾いた」という答えだ。

これは私が音楽という”行為“をどのように捉えているかに由来する。その行為の根本においては「自分の背景やその時の状況から自然発生的に表れた意図しないものこそが音楽の本質であり、意図的なものは音楽の本質からは遠いところにある」と私は考えている。

なので自分が行なった音楽行為に対して後から説明がつくようなものは私の考える音楽の本質とは随分遠い。自分でも「なんでそうやって弾いたのかわからない」というものが本質的なものに近い。あくまでも私の考えである。

これは「意識」と「言葉」の関係にも似ている。

意識はその中に「無意識」をも含むので、自分の意図しないところからも表出する。
それに対して「言葉」は何かしらの事象を誰かに説明するという意図が介在する。

順序としては「意識があって言葉がある」のだが、その本質はいささか異なる。

音楽の話に戻って、私は音楽という“行為”を行っている時に出来うる限り意図的でない状態を心がけている。「なぜそう弾いたのか?」と聞かれた時になるべく自分でも説明のつかないような状態、「自分でもよくわからない、そのように頭の中で音が鳴ったから」と言えるような状態が私にとって理想的な状態であり、逆に「ここはこういう風に弾こう」と考えているような状態は私にとっては全く好ましい状態ではない。

自分でも把握しきれない得体の知れない「何か」に導かれて音楽という物語に没入していきたいと思っているのだが、もちろんそんなに上手くいくはずもなくて度々「意図的に」なってしまう。そしてその度に「そういうことじゃねえんだよな」と落ち込む。


なぜこんなことを書いたかと言うと、今日Webでこんなエッセイを読んだからだ。
ミスター村上とボストンの叔母


作家の村上春樹氏がアメリカのとある大学を訪れた時にその大学の学生としていた筆者が書いたエッセイだ。


とても読みやすくてなおかつ深い洞察のある素晴らしい文章だと思う一方で、私はこの文章には全面的には同意できなかった。

筆者が「村上氏は意識ではなく無意識を使って物語を描いている」ということを認識する一方で、彼が語ったことの大部分である「わからない」「おぼえていない」「理由は特にない」という言葉に失望し落胆している。また、村上氏がそのように語った要因は「老い」なのではないかという言及もある。


音楽は常に意図的でありたくない、と願う私は同様に小説に対しても無意識的であっても良いじゃないかと思っているので、小説の作者が「あなたはなぜあんな風に書いたのですか?」と聞かれた時に「わからない」「おぼえていない」「理由は特にない」と答えることを全然不誠実だとは思わない。その言葉が正直で誠実なものであったとするならば、そのような状態で作品を生み出すことが出来たことに羨望を覚える。私たち音楽家がエゴや意図から解き放たれたところで音を出すことにずっと憧れているように。


「あなたはなぜそのように弾いたのですか?」と聞かれたら常に

「わからない。多分心の奥底でその音が鳴っていたから」と答えられるようでありたい。


ということで今日はこのWebエッセイを読んでこんなことを考えていました。

今日の演奏動画。

Traditionalの『My Bucket's Got A Hole In It』をソロピアノで弾いてみました。リードシート(譜面)も添えてあります。

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