再び柔道を始めるきっかけとなった物語
東京〜大阪間を鈍行電車で移動をしていて時間がたっぷりあるので、今日は少し長い文章を書いてみようと思う。
一年と少し前から柔道をやっているのだが、それについて人から「何で?」と聞かれることがよくある。
実はここに関しては話すと少々長くなる事情があるのだが、それをうまく説明出来ないので「まあ、若い頃にやってたんで」と答えるに留めている。それは決して嘘ではないからだ。
ただ、今日はたくさん時間があるので、その「話すと少々長くなる事情」について書いてみる。これは私にとってはとても大切な話だ。
最初に柔道を始めたのは小学校の三年生か四年生だったと思う。地元にある小岩警察の少年柔道で始めた。多分、強くなりたかったんだと思うけれどその詳細な動機についてはあまり覚えていない。両親に「柔道を習いたい」と頼み込んで通わせてもらった。
同時期に始めた子供たちの中でも割と強い方に入ったと思う。すぐにその楽しさの虜になった。
そのまま地元の公立中学に上がった時にも迷わずに柔道部に入った。警察柔道で一緒に練習していた一つ年上の先輩だった長沼くんは私よりも一年先にそこの柔道部に所属していて、私が入学してすぐに「福島お前も柔道部入るよな?」と聞いてくれて「当たり前でしょ!」と力強く答えたのを覚えている。
そこからは一気に柔道漬けの日々になった。
学校の部活動と、それと並行して長沼くんと共に近所の町道場に通った。本八幡にあった「加藤道場」という名前のその道場には週に3日は通っていた。
厳しくも暖かい指導者や先輩に恵まれたこともあって、私はどんどん強くなっていった。
なのだが、中学生の時に、どうしても一人だけ勝てない選手が同学年にいた。
足立三中柔道部の高橋くんという選手だった。
私のいた江戸川区と区は違ったが、東京都予選などのブロックは一緒だったので上まで勝ち進むと必ず高橋くんと当たって、そしていつも負けた。
最軽量級の60kg級では、いつも彼が優勝していた。私が一番勝ち進んだ三年生の時の東京都大会でも、準決勝で彼に負けたことを覚えている。
大会の空き時間にはいつも彼の試合を食い入るように見た。負けるのが悔しくて、彼にどこか弱点はないか、付け入る隙はないかと思って必死に研究した。けれど私は一度も彼に勝つ事が出来なかった。
多分中学時代だけで五回か六回は対戦していると思うが、その全てが敗戦だった。
彼に勝ちたかったが、勝てなかった。それが私の中学時代の柔道の思い出だ。
彼に勝つことは出来なかったが、それぞれの大会ではそれなりに良い成績を収めることが出来たので、高校に上がる時には10校以上の学校からスポーツ推薦のスカウトが来た。とても嬉しかったのだけれど、結局私は受験して普通の公立高校に行くことにした。
高校に上がってからももちろん柔道部に入った。私立の強豪校ではなくて公立高校の普通の柔道部だったのでそこまで練習が厳しくはなかったが、その中で何とか工夫して練習して少しでも強くなろうと努力した。
私が中学時代に一度も勝てなかった高橋くんは、柔道の強豪校である足立学園に進んだ。当時東京で柔道が強かったのは、世田谷学園と国士舘高校、そしてこの足立学園だった。他にも強い学校はたくさんあったが、この三校がずば抜けて強かった。もちろん全国レベルだ。
かたや名門の足立学園、かたや公立の弱小柔道部。こりゃあ高橋くんとの間に元からあった差が更に開いちゃうなーとも感じていたのだが、出来る範囲で頑張るしかなかったので私は公立柔道部で頑張った。一年からレギュラーになれたのはそれはそれで嬉しかったし。
だが、高校の柔道の大会で高橋くんを見なくなった。たまたま病気や怪我で欠場していたのかなとも思いつつ、しかしそれが二度三度と続いたのでおかしく思った。
あれだけ強かったのにどうしちゃったんだろう、ひょっとして柔道辞めちゃったのかな。
そう思って、私はある大会の時に足立学園の選手に声をかけて高橋くんのことを聞いた。
私が高橋くんのことを訊ねたその時の足立学園の選手の気まずそうな顔を今でも覚えている。
彼らが教えてくれたのは、高橋くんが試合中の怪我で頚椎を損傷したこと、それにより下半身に麻痺が残っていること、そしてもう一生柔道は出来ないこと、だった。
それを聞いた私もその場で言葉を失った。何と答えていいのかわからなかった。悲しさや苛立ちや憤りが混然となったような感情に襲われた。
そんなことがあって良いのかと思ったけれど、突き付けられた「現実」という名の暴力を前に、私は無力に立ち尽くした。
もちろんそういったことが無かったとしても私は彼に勝つことは出来なかっただろう。実力がどんどん離れていってしまっていたから。
それだったら諦めもつくのだが。
そういう理由とは別に、一度も勝つことが出来なかった彼に私はもう永久に勝つことが出来ない。その事実がそこで確定した。
それはおそらく喪失感のようなものだったのだと思う。乾いた絶望を伴った喪失感だった。
結局高校時代には柔道ではこれという成績は残せなかった。楽しくやることは出来たのでそれはそれで満足しているけれど、大学に進学する時にスポーツ推薦の話などが来るはずもなく、普通に受験をして大学に進学した。
大学でももちろん柔道部に所属した。高校と同じく決して強い柔道部ではなかったけれど、楽しかった。大学三年生の時に選手権大会の予選で敗退したことで、学生として出場出来る試合はそれが最後になった。少々大袈裟な言い方になるが、それが十数年続いた私の柔道選手としての生活の一旦のピリオドだった。
そこからは何故かピアノを弾き始めて、いつの間にやら音楽家としての生活をスタートした。テレビで中継していれば柔道を見ることはあったが、自分でやることはもうなかった。出来るような気もしなかった。私の生活の中から柔道は無くなっていった。
様々な失敗や挫折を繰り返しながらも、私は音楽家として生きている。これは今現在も、である。
2016年のある日のことである。
家で何となくテレビのスポーツニュースを見ていたら、ボッチャという競技のニュースをやっていた。
カーリングに似たルールの障害者向けの競技で、その当時のボッチャの日本代表選手たちは「火の玉ジャパン」と呼ばれ、リオデジャネイロでのパラリンピックに出場していた。
ふーん、そういう競技があるんだー、へー。
ぐらいの軽い感じで見ていたのだが、途中で「あれっ?」となってテレビにかじり付いた。背筋に電流のようなものが走った。
高橋くんがいた。
私が一度も勝てなかった高橋くんが、ボッチャの日本代表選手としてそこにいた。
車椅子の上からボールを投げる彼は私と同じく36の歳だったので昔と風貌は変わっているけれど、何度も食い入るように試合を見た選手だ。ぱっと見てすぐにわかった。
その後にテロップで高橋和樹選手と出た。間違いなかった。それは高橋くんだった。
テレビの前で「おっ……おおっ……!」と私の嗚咽のような声が漏れた。
勝手に目標にしていて、そして勝手にいなくなった彼が、かつてとは違う舞台で輝いていた。
衝撃のあまり、少し涙がこぼれたその時のことをよく覚えている。
それからは注意してボッチャのニュースをチェックするようにした。高橋くんがどのような活躍をしているのかを見るのが楽しみだった。
それから5年後。2021年。
東京で行われたパラリンピックに、やはり高橋くんは日本代表として出場していた。
ペアBC3というクラスで決勝戦に残ったというニュースを聞いた。
その時に私は嬉しさからTwitterにこのように投稿した。
彼はかつて柔道の素晴らしい選手であり私が目標にしていた選手だ。その後怪我により柔道を諦めざるを得なくなったが、今はボッチャという舞台で輝いている。彼の決勝戦を私は特別な思いをもって応援している。
大体の要約になるがこのように投稿した。
決勝戦は惜しくも敗れ銀メダルとなったが、残念などという気持ちは私には微塵もなかった。すさまじい努力の賜物、歓喜の銀メダルだと私は喜んだ。
後日、私のTwitterの投稿を高橋くんの姪の方が発見してくださり、高橋くん本人に私の投稿のことを知らせてくださった。
それにより高橋くんと直接Twitter上で話す機会に恵まれた。
高橋くんは私のことを覚えていなかった。これは当然だと思う。私からすれば彼は「いつも負けていた相手」なので覚えているのだが、彼からすれば私は「優勝する過程で降した選手の一人」でしかないのだから。
それでも過去の試合のことを話したりしている内に「ああ、その時そんなことありましたねえ」と互いに過去を懐かしむことが出来た。
私はかつて目標にした彼がパラリンピックで銀メダルという栄誉に輝いたこと、そしてそこから多くの勇気をもらったことに感謝の言葉を書いた。彼もそれに対して「ありがとう」と言ってくれた。
話は一旦そこで終わったのだが。
それから数ヶ月後に私はTwitterにこんなことを書いた。
〜〜〜〜〜〜〜〜
夜な夜な酒を飲みながら柔道動画ばっかり見てるけれども。
柔道やりたいなあ。
講道館の二段持ってるんだけど、もう離れてから20年ぐらい経つし。
でも近所の道場で受け身と打ち込みだけでも…
でもやってたら試合出たくなっちゃうだろうしなあ…
やりたいなあ。
〜〜〜〜〜〜〜〜
完全に独り言である。それに対して高橋くんから以下のようにリプライがついた。
〜〜〜〜〜〜〜〜
きっとその気持ち、今から10年後20年後も変わらないと思うよ。変わるのは10年後や20年後だと柔道できる動ける体では無いかもしれなくてその時じゃ遅いこと。
自分だったらやりたいなら先ずやるかな。運動程度で満足するか、試合に出たいと思うか、先のことはそう思った時にまた考えればで。。
〜〜〜〜〜〜〜〜
動いてみたらわかること、やってみたらわかることがあると思います。
動いてみて「やっぱり柔道はもう見てるだけがいいわ」と思えばそれはそれで良いのでは。
おそらく20年以上ぶりに柔道をやればこんなに自分の体が衰えているんだと筋肉痛を懐かしく感じるでしょうがそれも動いてみた結果(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜
以上が高橋くんからのリプライである。
柔道をやろう、とその時に決断した。
高橋くんへのリプライを書く前に、私は現在通う忍田道場へ見学願いのメールをした。
それから高橋くんに感謝を述べた。
もはや高橋くんは柔道は出来ない。やりたいという気持ちもどこかにあるのかもしれない。けれどそれは決して叶わない。
にも関わらず、私に対して「柔道やってみれば良いじゃん」と言ってくれるその人間の大きさに心を打たれた。
自分が逆の立場だったらそういうことが言えるだろうかと考えた。例えば今怪我や病気でピアノが弾けなくなったとして、目の前で「ピアノやってみようかなどうしようかな」と悩んでいる人に「やってみなよ」と言えるかどうか、と。
なかなか難しいような気もするが、高橋くんは私に「柔道やってみれば」と言ってくれた。深く深く感謝している。
その後、忍田道場からメールが返ってきて「見学だけでも良いんですがせっかくなのでちょっとやっていきませんか。動きやすい格好でお越しください。」とあった。私は柔道着を持っていないことを事前に伝えていた。
メールを送った翌日か二日後ぐらいが見学の日だった。仕事で都心まで出ていた私は「もういいや、どうせやるし柔道着買っちゃえ」と思って、水道橋にある柔道着を扱う店で柔道着を購入した。
道場に見学に行って、20年ぶりに柔道着を着た時に、気恥ずかしいけれどとても懐かしい気持ちになった。そうだ、この感じだ、と。
皆さんと一緒に少し稽古をさせてもらったけれど、笑えるぐらいに身体が動かなかった。
歩いて行っていたのだが、帰り道は疲労で身体に力が入らなくて牛歩のような歩みで帰った。
結局そこから20年ぶりの柔道生活が再開した。
道場の方も素晴らしい方ばかりで、そういった仲間に出会えた事にも深く感謝しているし、何より「やはり私は柔道が好きなんだな」ということをつくづく実感させられている。
高橋くんがリプライをくれていなければこうして再び柔道生活をすることもなかったかもしれない。人生は本当に何が起こるかわからない。
ということで長くなったけれど柔道再開までのちょっとしたドラマでした。
私の中ではとても大切な物語です。
今日の演奏動画。
Cole Porterの作曲した『I Concentrate On You』をソロピアノで弾いてみました。
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