初めからバラードの良さはわからなかった
立川「Jesse James」での昼ライブ終了。
ありがたいことにここ数ヶ月間、月に一回定期的にやらせてもらっているボーカルの高原かなさんとのデュオ。
お客さんこそそんなに多くはなかったけれど、集中して充実の演奏が出来た。とても楽しかった。
ステージをやっているさなか、高原さんがMCで「昔はとにかく速い曲がやりたかった。ひたすらスイングしたかった。ゆったりしたバラードなんてやりたくなかった。それが色んな経験を積んでいく内にバラードの楽しさや美しさがわかってきて、今はバラードをやるのはとても好きだ」ということを言っていた。
わかるなあと思うと同時にそれは私にとってはすごく「正しいこと」のように思えた。
もちろん私もバラードを弾くのは好きだ。静謐な中で青白く光る炎のような情熱や、透き通った水の中に光が差すような美しさを少しでも表現出来たらなと思ってやっている。
それは私が猥雑で俗物的な部分が多いにあるからこそそう願うのではないだろうかと思うのだ。私は決して心の綺麗な人間ではない。
そんなことを考えながら若い頃の恥ずかしい自己顕示欲みたいなものを思い出していた。
自分は優れている、自分は社会や他人にとって必要な人間であると思いたいせいで、不必要に自分をアピールしてしまう。とにかく自分のことを喋りたい、人の話なんて聞いてる暇はないとでも言わんばかりに。
どこからどう見てもイタイし恥ずかしい。
けれど、そういう経験があるからこそ人の話に耳を傾ける価値を少しずつわかってきたのではないかなと思うのだ。
再び音楽の話に戻るが、若いドラマーなどが「たくさん叩き過ぎだ、それに音が大き過ぎる」と叱られているシーンをたまに見るが、その時には私は「良いじゃん叩きたいんだから。たくさん叩きなよ。ドカスカとデカい音も出しまくろうよ」と思ってしまう。
なぜならば、そういう道を辿らないで「小さな音とスペースこそが美しい」という結論に達されても、私の中では“なんか嘘くさい”からだ。
若い頃のやり場のない情熱や自己顕示欲、漠然とした不安や焦燥感。
そういうものをきちんと通過してこないのはヤバい、と私はどこかで思っている。
バラードの美しさに最初から気付ける人は確かにすごい。けれど昔はわからなかったその良さに後から気付けることもそれと同じかそれ以上にすごい。
何がきっかけでそうなれるかと考えると、多分全てをありのままに認め受け入れて、そして肯定していくということなんじゃないだろうか。
これからもなるべくそういう風に音楽をやりたい。
“今起こっていること”をとにかく肯定して受け入れていく、というスタンスで。
そして変化を決して恐れずに。
今日はそんなことを考えたライブだった。とても楽しかった。高原さんとお店とお客さんに感謝。
今日の演奏動画。
Tommy Flanaganの作曲した『Beyond The Bluebird』をソロピアノで弾いてみました。
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