『ゴドーを待ちながら』的な日常
だいぶ昔、大学の英文科の学生だった私が卒業論文を書くにあたって題材に選んだのはアイルランドの劇作家サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』だった。
不条理演劇の代表作とも言われるこの作品を選んだのは、その当時「不条理こそがカッコいい!」と思っていた私の幼くて激イタいメンタルからなのだが、まさかそれから20年近くが経って「あ、確かに”ゴドー的なこと”が日常生活にはあるかもしれない」と思うようになるとは、ということを今日はふと思った。
このブログも長いこと書いているので過去に何度かこの作品に言及したこともあるが、ここでもう一度。
そんなに長い話ではない。
劇は二幕に分かれているが基本的には第一幕も第二幕も同じ話で、エストラゴンとヴラジーミルという二人の男が”ゴドー”という何者かを待っているのだが、結局ゴドーは来ない、というだけの話である。
ゴドーがやってきたらどうなっていたのか、そもそもゴドーとは何者なのか。
そういったことは劇中では一切明らかにされない。
それゆえに不条理演劇の代表作として今でも度々話題に上る20世紀の大問題作である。
この作品の重要なポイントはいくつかあるのだが、その一つとして
・第一幕と第二幕、同じような内容が繰り返される
・しかし、第一幕と第二幕では微妙に状況が変わっている
ということがある。
状況の変化は例えば
・第一幕でエストラゴンとヴラジーミルのもとにやってきたポッツォとその従者のラッキーは第二幕でもやってくるが、第一幕では謎の長広舌をカマすのに第二幕ではポッツォは盲目になっておりラッキーは何も喋らなくなっている
・唯一の舞台装置と言っていい舞台中央に生えている一本の木、第一幕では枯れ木なのだが第二幕では葉をまとっている
などなど。
これらのことから読み取れることの一つは「日常はいつも繰り返しの中にあるが、同じようなことを繰り返しているようで実は同じことは二度と起こっていない」ということである。
さて、私の話だ。
毎日柔道のためのトレーニングをして、それからピアノを弾いて暮らしている。夜になれば酒を飲んで寝る。
ほとんどこの繰り返しだ。それ以外のことが無くは無いが、9割がたこれらのことの繰り返しで私の日常は成り立っている。
なのだが、実に面白いことに、やはり同じことを二度と繰り返してはいない、ということをよく考える。
公園の木に柔道の帯を巻き付けての日々の打ち込みトレーニングでも「今日は足の角度をこうしてみよう」とか「肩の入れ方を変えてみよう」とか色々と変化がある。
ピアノに関してもそうだ。毎日同じようなことを繰り返しているようでいて、実は同じことを繰り返していない。少しずつ変化がある。
毎日繰り返してやっていることの中にYouTubeに演奏動画を投稿するというのもあるが、これも今日から新しい試みを始めてみた。大したことではないのだけれど、演奏動画の横に私の作った譜面を添えてみる、というだけのことだ。
見ている人からしたら大した違いではないのかもしれないけれど、もしも何かしらの反応があったら面白いなと思って。
ちなみにこの記事の文末にある「今日の演奏動画」は、一週間以上前に録ったものであるので、新しい試みが施されている譜面付きの動画がアップされるのは多分一週間ぐらい後だ。そこから後の動画はしばらく譜面付きでやってみようかなと思っている。
ということで明日からも私は同じ「ような」ことを毎日繰り返す。
しかしそれは厳密には「同じ」ではない。
じゃあ同じでないならば一体繰り返しってなんなんだ?
そんなことを考えた日でした。
もちろん私のところにもゴドーはやってこない。
エストラゴン「今度は何をするかな?」
ヴラジーミル「わからない」
エストラゴン「もう行こう」
ヴラジーミル「だめだよ」
エストラゴン「なぜさ?」
ヴラジーミル「ゴドーを待つんだ」
エストラゴン「ああ、そうか」
今日の演奏動画。
Wayne Shorterの作曲した『Fee-Fi-Fo-Fum』をソロピアノで弾いてみました。
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