選挙が近いみたいだ
昨日で旅を終えて今日からは再び「日常」の再開。
と言っても特別なことはなくて、今日は朝からレッスンの為に千駄ヶ谷へ。
途中で市ヶ谷駅で一旦途中下車してホーム内の「大江戸そば」で朝食を。
朝は少しお得になる山菜おろしそば400円。
あっさりしていて朝食には良い。
今日気付いたこと。
昨日まで京都にいる時もそうだったのだが、選挙が近いようで立候補者たちやその支援者の演説に道すがらで出くわすことが多かった。
これまでに選挙に行かなかったことは多分ほとんどないし、今回も行くと思う。
まだどこ(誰)へ投票するかということは決めていないのでこれから考えて投票しようと思う。これまでに自民党(並びにそこと連立を組む政党)に投票したことは一度もないのでおそらく今回もそうなる可能性は高い。
しかし、この際に私なりに気をつけていることがあって。
人間は(というか私は)、自分にとって気持ちの良い言葉を発してくれる人についつい同調しがちである。
やはりどちらかと言えば野党の候補者が言っている意見の方が私の意見に近いところが多い。
自分の意見を補強してくれるような意見に与すること自体は悪くないと思うのだが、その際に自分にとって心地よくない意見を「間違いである」と切り捨ててしまうのはどうなのだろうと思っている。
一つの問題に関して
・Aと考える人
・Bと考える人
・Cと考える人
がそれぞれいたとして、私にとってはその際に最も重要なのは「なぜその考えに至ったのか」というプロセスである。考えの種類がAであるかBであるかCであるかは実は結構どうでもいい。
そのプロセスを遡って考えると全ての意見にある種の正当性が生じてくる。
そっか、そういう事情があるならそう考えるのもなるほど納得がいくなあ、と。
この辺のプロセスの違い、つまりはここまで歩んできたそれぞれの人生の違いをお互いに考えることが私にとっては「思考する」ということであるので、自分と違う意見を切り捨てる姿勢はどうなんだろうといつも思ってしまう。
野党の立候補者や支援者たちの演説を立ち止まって少し聞いている時に、「あなたの意見は概ね私の意見と近いところが多い。しかしそれと反する与党の意見やその支持者の意見にはそれぞれのプロセスがありそれぞれの正当性がある。それは私とは異なるというだけで」ということを考えてしまった。
私には私のプロセスが過去にも現在にもあって、それに基づいて思考している。そしてそれは全ての人に同じことが言える。
なので私は真っ当な保守主義の方の話を聞くのは割りと好きだ。自分とは意見は違うのだが「なるほどそう考えるのかー」という発見を得られることが多い。
人は何をもって幸せと感じるのだろう。
人は何をもって平和と考えるのだろう。
選挙はそういうことを改めて考える機会をくれるので結構好きだ。
私は選挙に行った方が良いと思っているので行く。
願わくば多くの人が選挙に行きますように。
私と意見の近い人も、全く違う人も。
今日の演奏動画。
Michel Legrandの作曲した『I Will Wait For You』をソロピアノで弾いてみました。
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