何の苦労もしていない
私など人生において何の苦労もしていないと自分で思うことがかつてはしばしばあって、それは一つのコンプレックスのようなものでもあった。
やっぱり大変な思いをしている人にしか出せない「重み」みたいなものがあって、私にはそれがないので私は人間として随分軽薄なんだろうなあ、と。
しかしそれはどうなんだろうな、と最近思う。
例えば私から見ても「この人大変そうだなあ、苦労してるなあ」と思うような人が「いや全然大変じゃないっすよ」と涼しい顔をしている時がある。
これが単なるやせ我慢であったならその人は実際には非常に苦労をしているがその苦しさを他人には漏らさない強い人、ということになるのだが、そうではなくて本人が本当に心から「別に苦しくない」と思っている場合、私から見てその人は「大変な苦労人」であったとしても本人は自分のことを「別に何か苦労をしているわけではない」と認識しているのだ。やせ我慢でもなんでもないということだ。
例えば私の場合、仕事であるピアノの練習や趣味の柔道の稽古。自分なりにあれこれと工夫をしながら毎日少しずつ積み重ねているのだが、もしもそれを人から「血の滲むような努力・鍛錬」と人から言われた時に、「いやいやいやいやいや全然大変じゃないっすよ!」となる。本当に心からそう思う。毎日全力で遊んでいるだけなのだ。苦労や努力をしているという認識は全くない。
他人から見て「これは明らかに大変でしょ、苦労でしょ」と思うような状況を「いや、これは苦労でもなんでもない」と思えるセンスみたいなものがあったとしたならば、私はそういうセンスはちょっと高い方なのかもしれないなと思う。
そういえばコロナ騒動の初期に演奏やレッスンの仕事が一切なくなった時にも私はあんまり焦っていなかった。何とかなるだろうしならなかったらならなかったでその時に考えよう、というぐらいだった。むしろ「仕事がなくなったからたくさん遊べる!たくさん練習できる!」とどこかで嬉しく思っていたぐらいだ。今から思い返すともう少し焦れよ、と思う。
昔は少し人のことを気にしていたような気がする。例えばピアノのことで言えば、自分よりも上手い人がたくさんいるとか逆に自分はこの人たちよりは上手いはずだ、とか。お金に関しても、みんなたくさんお金を持っていて良いなあという感覚と、でも自分よりも貧乏な人もたくさんいるしというような、自分と他人を比較して自分がどれぐらいの位置にいるのか、なんてことを気にしていたような記憶がある。
どんどんそういうものがどうでも良くなってきてしまって、自分がどうありたいか、自分が何をしたいかばかりに気を取られていたら他人と自分を比較するような思考の習慣がすっかり無くなってしまった。自分よりピアノが上手い人の存在に落ち込まないし、自分より下手な人に優越感も感じない。柔道も同じ。
ま、すっかり無くなったってことはないかな、今でも少しは気にするかな。うん、ちょっとは気にする。
でもそういう感覚が「自分はやりたいようにやっているだけだから別に何の苦労も努力もしていない」というところに繋がるのかもしれない。
ということで今日もやりたいように一日を過ごしてきた。明日もそうする。
そういう人生で恥ずかしくないのか!と怒る人には言っとく。
恥ずかしくない。
今日の演奏動画。
Kenny Burrellの作曲した『Funky』をソロピアノで弾いてみました。
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