ひな祭りの一人散歩
もう練習もしないし何もしない、今日はとにかく無為に過ごす!と決めた昨日。
毎日のブログ更新とYouTube更新だけを何とかやっつけて家を出たのが14時過ぎだった。
何の目的もなく家を出たのだが、とりあえず何かを腹に入れたい、何か食べたいと思って京成高砂駅方面へ歩き始めた。京成高砂駅のすぐ近くには私のとても好きなラーメン屋と立ち食いそば屋が並びであるのでそのどちらかの店へ行こうと思っていた。
【自宅~京成高砂】
私の家から京成高砂駅までは歩いて30分ほど。昼下がりの良い陽気の中を歩くとそれだけで気分が良かった。
ベビーカーを押す母親とすれ違った時に、ベビーカーの中で不遜に寝転がる赤さんを見た。赤さんは可愛かった。そしてその時に「赤さんは何もしなくとも生きているだけでエライ」と思った。赤さんはマジで生きているだけでエライ。
生きているだけでエライ、ということのスケールのデカさを考えた。
我々人間はついつい「何かを成し遂げたからエライ」とか「何かを成し遂げていないとエラくない」というような尺度で物事を考えがちだが、そんなことがものすごくみみっちく感じた。とてもスケールの小さな、了見の狭い考えだなと。
目の前のこの赤さんという生き物は「生きているだけでエライ」のである。そのスケールのデカさを見習わなくてはならない。
親鸞上人の悪人正機説が頭に浮かんだ。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやというお馴染みのアレである。
私の物事の考え方の根底にはこの悪人正機説があるので、まさか路傍の赤さんに人生の最重要事項「生きているだけでエライ」を改めて教えられるとは思っていなかった。
全ての赤さんはエライ。そして超可愛い。
そんなことを考えながら歩いていたら京成高砂駅に到着した。
うっすらと「どっちかって言うと今はラーメンより蕎麦が良いな。ラーメン屋が昼休みに入ってたら迷わずに立ち食いそば屋に入れるからラーメン屋が昼休みに入ってると良いな」と思っていたら案の定ラーメン屋は昼休みに入っていたので消去法的に立ち食いそば屋に入ることができた。
京成高砂駅前の立ち食いそば屋「新角」のたぬきそば400円がこれである。めちゃくちゃ美味い。
良い意味で「立ち食いそば屋っぽく」ないのだ。普通の街の蕎麦屋で出てくるようなたぬきそば。それが400円はかなり安い。
極上のたぬきそばに舌鼓を打った後にさてどこへ行くかなと思案しながら京成高砂駅に向かった。
そうだ、京成金町線に乗ろうと思った。
京成金町線は京成高砂駅と京成金町駅を京成柴又駅を経由しつつ結ぶ三駅だけの路線だ。すごく好きな路線なのでいつも乗りたいのだけれどなかなか乗る機会がないのだが、この日は暇な一日なので乗って良かった。
【京成高砂~京成金町~水元公園】
京成金町線に乗って金町駅まで行ってから歩いて水元公園に行こうと思った。
歩くと30分ぐらい。ちょっと遠いけれど所詮全ては暇潰し。良いじゃないかと思って水元公園へ向かった。
水元公園は良かった。
若い頃から何度も来ている東東京屈指の規模の公園だ。
大きな池があるのでその畔で寝転がった。
見上げた時の空の青さがあんまりにも透き通っていて、その眩しさに少し眩暈がした。
白い月が空に出ていて、その上を飛行機が通り過ぎていった。何度も何度も。
池を見たら、等間隔に打たれている杭の上に鳥が留まっていて、なんだこの美しさは!と驚愕した。黄金比なんかもそうだけれど、自然の世界の中で起きる不自然なほどの規則的な美しさはどこまでも芸術的だ。
少し眠くなってきたなと思ったので30分ほど路上で寝た。起きたら少し寒かった。
【水元公園~金町~千駄木~谷中銀座】
水元公園を後にして次はどこへ行くかなと思った。とりあえず金町駅に戻ろうと思って水元公園から金町駅行きのバスに乗った。
バスの中で、目を離した隙に必ず降車ボタンを押す子供がいて、押す度に母親が「すみません!間違いです!」と車掌に謝っていたのが良かった。あれ押したいよね。わかる。わかるよ。
なのに本当の降車場の前に来た時に母親が「ほら、次は押していいよ」と言うと「次はもういいや」と言って押さないガキもといお子様。お前そこは押せよ。ガキ可愛いなあ。
バスが金町駅に着いて、そこからも完全にノープランだったのでとりあえずJRのホームに行った。行ってから最初に来た電車に乗ろうと。
ホームに行って最初に来た電車は、千葉・茨城方面に向かう電車ではなくて、東京都心を経由して神奈川方面に向かう電車だった。そっか、今からそっち方面に行くんだと思って電車に乗り込んだ。
どこで降りるかも決めていなかったので、よし、降りたことのない駅で降りてみようと思った。
あんまり遠くに行き過ぎても帰る時にしんどいしなと思いながら駅名を見ていたら、千駄木という駅名が琴線に触れた。
なんとなく土地勘のある地域だけれど千駄木という駅で降りたことはないから千駄木で降りてみようと思った。
降りてみたらものすごく知った辺りだった。なんだここ日暮里じゃねえか、と思った。
そういえば谷中銀座ってこの辺なんだよなと思って谷中銀座を探して歩いた。
歩いている途中でトイレに行きたくなってコンビニでトイレを借りた。トイレだけ借りて出るのは失礼かなと思ってここで缶ビールを買った。ここから飲酒が再びスタートした。数時間前まで「もう酒なんて飲まないなんて言わないよ絶対」と槇原敬之よろしく歌っていたのに。仕方なかった。トイレ借りたんだもん。
谷中銀座は柴又帝釈天の商店街に近いような活気があって面白かった。
途中にあったお惣菜屋さんで一枚130円のハムカツを買って歩きながら食べた。
ソースもかかってないしアツアツでもなかったけれど十分に美味しかった。ビールと一緒にハムカツは私の身体に吸い込まれた。
【谷中銀座~日暮里】
谷中銀座を抜けて日暮里まではすぐだった。というか谷中銀座はほぼ日暮里なんだなと思った。
週に何回も利用する日暮里駅の、見たことがない出口を見て「へー、こんなところあるんだ」と妙に感動していた。知っているつもりのことはほとんど知らない。
この無目的かつ無意味な旅のクライマックスは突然にやってきた。
見慣れない日暮里駅の出口の横の道を少し進んだら、線路の上にかかる高架の道に出た。
急に開けた視界に戸惑いつつも、そこから線路と、また線路と共に続く景色を眺めた。
向こう側に夕日が沈み、昼と夜の境目が赤と黒のコントラストを作った。
どこかへ行ってきてどこかへ帰る人たちを乗せた電車が眼下を通り過ぎた。
人が生きている、と思った。
今日は何もうまくいかずに会社で散々怒られて落ち込みながら帰るという人がこの電車の中に何人かは乗っている。もしかしたら今から死のうかなと考えている人も何人かいるかも知れない。
私は私で、今日は全てのことをサボって無目的に遊びつつここ日暮里の高架にいる。
うまくいかない者同士が、こうやってたまたまここですれ違っている。
ああ、人が「ここ」で生きている。そう思った。
昼の赤さんのことを思った。
いやいやおれたちは生きているだけでもめちゃくちゃエライよ、と。
そんなことを考えていたら急に涙がこみ上げてきたりしたので、その場は早々に離れることにした。
日暮里から電車に乗って帰ろうかなとも思ったのだが、町屋まで歩くことにした。まだもう少しこの小さな旅を終わりにしたくなかった。
町屋にはお気に入りの立ち飲み屋があるので、そこで一杯やりながらこのブログの下書き原稿でも書いておこうと思って町屋へ向かった。
【日暮里~新三河島~町屋~京成小岩】
日暮里~新三河島~町屋のエリアはちょっと複雑なエリアだ。多分韓国人たちの集落があるのだと思う。ハングル文字の食堂がそこかしこに目につく。
皮革業の工場や小売店がいくつもあることから、そういう人たちがどういう職業に従事していたのか、あるいは従事せざるをえなかったのか、そういうことに考えが及んだ。
京成線の線路沿いに歩いていくと、大体30分ほどで町屋に着く。
駅前にあるお気に入りの立ち飲み屋に入って焼酎の紅茶割りと煮込みとアジ刺しとわかめ酢を頼んだ。これで1000円いかない。素晴らしい安さである。
ツマミをちびちびと食べて酒をゆっくり吞みながら小さな旅のことを思い返してそれを少しずつスマホで下書きした。この文章の前半部分は立ち飲み屋で吞みながら書かれたものだ。
このあと少し追加注文をしたけれど、お会計は2000円弱だった。良いよ素敵だよ晩杯屋。
店を出て京成線に乗って京成小岩まで。家に帰った。少しほろ酔いになったことと一日中歩き回って疲れたことも手伝ってすぐに寝てしまった。
やりたいこともたくさんあって、そのためにやらなくてはいけないこともたくさんあって。
日々の訓練を含めてあんまりサボっている場合ではないのだけれど、たまにはこうやってサボるのも良いなと思った。
頭の中にあるジグソーパズルのピースのようなバラバラな小さい思考を整理したり、空を眺めてみたりすることもたまには必要なんだな、と。
また今日から日常が始まる。
先週はライブがあったから休んだけど今日は二週間ぶりの柔道の稽古だ。足の怪我も少しずつ回復してきているから、今日はまた少しずつ稽古を積み重ねられるといいな。
今日の演奏動画。
Gerry Mulligunの作曲した『Five Brothers』をソロピアノで弾いてみました。
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