家系ラーメンで自らの弱さを認める
若い頃からずっと麺類が好きだ。うどん、蕎麦、ラーメン、パスタ、全て好きだ。
最近ではもっぱら蕎麦が中心。高級な蕎麦屋に行ける身分ではないので、メインは「ゆで太郎」、「富士そば」、「小諸そば」、それからローカルな立ち食い蕎麦屋。
たまの贅沢で街中にあるたぬきそばが5~600円ぐらいの価格帯の昔からある蕎麦屋にも行く。家族で経営しててテレビが流れてるようなとこ。それもとても良い。
色んな蕎麦屋に行って「ここは素晴らしかった!」という店を発見するのはもはや私のライフワークのようになっている。いずれ別の記事で私のイチオシの蕎麦屋も紹介したい。
蕎麦屋を巡るようになったのはここ10年ぐらいのような気がする。
若い頃はラーメンが好きだった。今でも好きだけど。頻度としても蕎麦屋に行くよりもラーメン屋に行くことの方が多かったと思う。
コッテリしたラーメンも大好物だった。背脂の量を選べるようなラーメン屋では「背脂ギトギトで、なおかつ麺大盛りでオナシャス!!!!!!」と高らかに叫んでいたような気がする。
食べられたんだもの、若かったから。力こそパワー、そんな時代が私にもかつて確かにあったのだ。
それが次第に食べられなくなる。食べられなくなるというか、食べるのがしんどくなる。
ラーメンの好みもどんどんあっさり系に寄っていく。こういうのってとても面白いと思う。身体の状態によって味の好みって変わるのだ。「好きなもの=自分が消化できるもの」という構図は、食べ物だけに限った話では無いのかも知れない。
"家系"と呼ばれるラーメン屋群があって、それらはコッテリしたラーメン屋の一つのカテゴリーだ。昔は狂喜乱舞して通ったけれど、今はたまにしか行かない。
で、その"家系"においては味の好みを選べる所が多くて、最近ではたまに"家系"に行くと「油少なめで味薄めでお願いします」と言うようにしている。
1960年代のジョン・コルトレーンカルテットに「音量抑え目の演奏でお願いします」と頼むようなもので「じゃあコルトレーンを聴くな」と言いたいし、若い頃の私がそんなのを聞いたら「じゃあお前は家系に来るな!」とブチギレたかも知れない。
邪道であることはわかっている。仕方ないじゃん、しんどいんだもん。
私はかつて家系で"油少なめ味薄め"を頼んだ時に「弱さを認めるってこういうことなのかな」と思った。
人間は自分が優れている、自分は強いと信じたいが、みな自分で思っているほど優れていないし強くない。人はみなそれぞれに弱さを抱えながら生きている。
ひょっとしたら「自分は優れている(強い)」という幻想こそが優しさの対極にあることなのかも知れない。自分の弱さを認めることで人は初めて他人に優しく出来る。
私はもはや迷わずにそして悪びれずに家系で"油少なめ味薄め"を注文できる。
私は弱くなったのだろうか。
実は以前よりほんの少しだけ強くなっているのかも知れない。
今日の演奏動画。
Sonny Rollinsの作曲した『First Moves』をソロピアノで弾いてみました。
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