さようなら、松屋のカレー
京都に向かっています。
本日より三日間、京都で演奏させて頂きます。スケジュールは以下。
11月28日(木)三条「セサモ」ジャムセッション 20:00~
ホスト:市川芳枝(ボーカル) 村田博志(ベース) 大江秀明(ドラム) 福島剛(ピアノ)
参加費:1000円
11月29日(金)先斗町「スターダストクラブ」ライブ 20:00~
メンバー:市川芳枝(ボーカル) 村田博志(ベース) 福島剛(ピアノ)
チャージ:2000円
11月30日(土)伏見「レミューズカフェ」ライブ 19:00~
メンバー:西池のりこ(ボーカル) 村田博志(ベース) 福島剛(ピアノ)
チャージ:1500円
是非遊びに来てください!
で、以下はちょっと長いのですけれど、別件の宣伝。
ちょっと前に40代に突入しまして、これからはこれまで以上に一生懸命好きな事だけをやって遊んで暮らしていこうという決意を新たにしたのですが、その一環として「文章収益化計画」というのをしています。
これまで文章を書くのが好きであれこれ書き散らかしてきたのですが、少しずつそれで収入を得られるようにしよう、と。
具体的には10月の頭に「かつしか文学賞」というのに小説を一本投稿してみたのをきっかけに、今はエッセイを書いています。
昔やっていた、私の好きなジャズアルバムを私なりの切り口で紹介していく、というエッセイの原稿を書きためて、出版社に持ち込んで連載もしくは出版を狙うというもので、現在一社だけ、某出版社に持ち込み中です。そこがダメだったら別の所に行こうかな、と思っています。
ダメかも知れないけど、やってみないことには何も始まらないので、とりあえず全部「実行」していこうかな、と。
なので「そんなの無理だよ」とか「邪道なことやってんじゃねえよ」みたいなご意見をあまり聞くつもりはありません。あんまりそういう所に配慮しまくってると「実行」出来なくなるから。
良いんだよ、失敗したって。自分で責任取るんだから。
もちろん本業のピアニストも頑張ります。というか、これは本業の活動を売り込む為の活動でもあって。私なりに工夫してるんですけど。
で、そんな折、非常に残念なニュースが入って来ました。
松屋のカレーライスがなくなって、別のカレーライスになるそうです。
これの何がショックかと言うと、つい先日、松屋のカレーライスをモチーフにしたエッセイを一本書き上げたのですが、それが確実にお蔵入りになる、ということです。
だって松屋のオリジナルカレーライスはなくなるんだもん。
自分で書いたものなんですが、なかなか気に入っていて、お蔵入りにするのがとても残念なので、お蔵入りにするぐらいならここに公開しておきます。
こんなことをやってます。
もし興味を持たれた出版社がありましたら(今持ち込み中の某出版社との交渉が終わってからですが)ご連絡ください。
もしくは松屋ホールディングスがスポンサーになってくれても一向に構いません!
ということでエッセイ。
『福神漬けとThelonious Monk 』
近所にある牛丼チェーン店の松屋に昼飯を食べに行った時の話である。
松屋に行ったら私はメニュー選びで迷うことはほとんど無い。大抵の場合、カレーと豚汁を注文する。
多くの牛丼チェーン店がカレーと豚汁をメニューとして出しているが、私は松屋のカレーと豚汁が一番好きだ。カレーはかなり後を引く辛さが良いし、甘過ぎないのが良い。豚汁も、具材の煮込み具合が私には一番ちょうど良い。蓮根やゴボウなどの根菜が煮込み過ぎて繊維の部分までくたくたになってしまっている豚汁は私はあまり好きではなく、煮込んで柔らかくしつつもシャキッとした野菜の繊維が残っている豚汁が私は好きだ。
また、野菜の出汁が味噌汁の部分に溶け込み過ぎてコクが豊かになりすぎてしまっているのも私にはイマイチだ。全ての味が一つになってしまっているのではなくて、これはゴボウの味、これはタマネギの味、これはニンジンの味、これは豚肉の味、というようにそれぞれが溶け合いつつも独立しているという具合がベストなのだが、松屋の豚汁はそのバランスが非常に良い。
そういえば牛丼は?と言った場合、松屋は牛丼を「牛めし」と呼称しているが、この牛めし、決して不味くはないのだが私にとってはベストではない。私は牛丼に関しては吉野家の方が好きだ。私は松屋で牛めしを頼むことは滅多にない。
なので松屋に行く時はカレーと豚汁を食べに行く時であるし、牛丼が食べたかったら吉野家に行く。吉野家ではカレーと豚汁は滅多に頼まない。松屋で牛めしを頼まないように。
こういった食の話に関してはもう圧倒的に主観的な好みの話であることは承知しているつもりだ。
「何を言っとるんだ!松屋の牛めしは一番ウマイだろ!」と思う人は当然いるだろうし、なか卯派の人もすき家派の人もいるだろう。こればかりは味の好みなので仕方がない。
私はカレーと豚汁は松屋推し、牛丼は吉野家推しなのだ。こうやって自分の好みを見つけていくのはなかなか楽しいことだと思っている。
この日もカレーと豚汁の食券を買った。店員に渡す時に「すみません、カレーの福神漬けはナシでお願い出来ますか」と伝えた。福神漬けは甘いのでちょっと苦手なのだ。
席について出来上がりを待っていると、3つほど左隣の席にいるサラリーマン風の男がこちらにも聞こえるぐらいの声で電話をしていた。
「ええ、その件につきましては近日中に見積りと企画書の準備を始めます」とか「そちらの納期についてですが、すでに発注済みとのことです」とか、そんな感じのことを話していた。「メシ屋でそんな話をするなよ」と私は思わない。メシ屋に来てまで仕事の電話に振り回されて大変そうだな、しっかり受け答えしてるんだな、おれにはあんなこと無理だな、と思った辺りでネガティブ思考にターボがかかった。
私もついに40代に突入しているのだが、20代前半にちょこちょこしていたアルバイトを除けばピアノを弾く、ピアノを教えるということ以外の仕事をしたことが全くない。今もしも音楽家を廃業した時には「40歳職歴ナシ実務経験ナシ」というなかなかに香ばしい肩書きのおっさんが一人出来上がる。「詰んだな」と一人で呟きながら青木ケ原樹海に軽装備で向かわなくてはならない。とは言え、音楽の仕事も順風満帆とはほど遠いので精神的な距離としては青木ケ原樹海に少しずつ近付いている。多分今は横浜を越えて茅ヶ崎あたりだ。
私と同世代か少し年下に見えたその男が律儀な口調で電話しているのを見ながら「おれだったら電話に出ないな。熱々を食べたいから」と思い、思った瞬間に「ああ、良い歳をしておれは何て利己的なのだ」と自己嫌悪に陥った辺りでカレーと豚汁がやって来た。
さて、と思いながらスプーンを手に取ると、異変に気付いた。
福神漬けが、乗っている。
私は先ほど確かに「福神漬けはナシでお願いします」と頼み、それを了承してもらったはずだ。
ここで私は一瞬の内にこう思案した。
・そもそもなぜ私は福神漬けを断ったのだろうか。
・甘くてあまり好きではないからだ。
・しかしあったらあったで食べる。食べ物を残すのは私のポリシーに反する。
・食べはするのだが、心の底から福神漬けを美味いと思うことはないだろう。あまり好きではないからだ。
・ならば、私の所になど福神漬けを置かずに、もっと心から福神漬けを愛する人の元に一片でも多く福神漬けが乗った方が良い、そう思って福神漬けを断っている。私が断ることで少しでも福神漬けの節約になれば幸いだ。
・しかし、今私の目の前にある福神漬けの乗ったカレーライス、私が「福神漬けは断ったはずですが」と店員に申し入れた場合には、この福神漬けはおそらく捨てられてしまう。
・私はまだ手をつけていないとは言え、福神漬けにはすでにカレーのルーがべっとりとついているからだ。
・この福神漬けを使い回すのは衛生面から言っても推奨される訳はない。捨てるよりほかない。
・ならば何も言わずにこのまま食べ、福神漬けだけを残すのと結果的には何ら変わらない。
・そもそもこのような安いチェーン店に来て、通常の商品の形態から外れる「福神漬けナシ」などというイレギュラーなサービスを求める私の傲慢さがこのような事態を招いたのだ。
・いつだって私はそうではなかったか?他人の気持ちを想像することを忘れ、利己的な欲求にばかり振り回されている。
・「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言ったのは私の愛する宮沢賢治だ。
・「ほんとうのさいわい」を希求した賢治の世界観に深く感動したその経験はエセだったのか?
・いや、それは決してエセではなかったはずだ。
・だからこそ私は18歳の頃に青春18きっぷを使いながら賢治のふるさと岩手県を旅行し、北上川の傍らを歩きながら詩集「春と修羅」を口ずさみそんな自分に酔うという、思い返しただけで希死念慮必死の黒歴史をやって来たのだ。
・ヤバい、思い出したら死にたくなってきた。
・山田くん、きちんと目張りされた車と練炭持ってきて!
・いかん、死んではいかん。
・カレーに福神漬けが乗っているのは、仕方がない。店員には何も言わない。いや、何も言えない。
・福神漬けごとカレーを食べよう。
・そうしよう。
この間、約2秒である。ちなみに一連のこの意識の流れを文章にするのには30分ほどかかっている。
手に取ったスプーンを箸に持ち換えて、一片ずつぽりぽりと福神漬けを食べた。
甘い。あまり美味くない。
誰も悪い人なんていない。
ただ、人間は不完全であるから時折「間違える」のだ。
正しさを声高に叫び間違えを糾弾するような世界に私は住みたくない。間違えを許し合えるような世界にこそ、私は住みたい。
そう思って福神漬けをもう一片食べた。
うん。美味くない。
「コルトレーン!コルトレーン!」と叫ぶピアニストThelonious Monk の声をふと思い出した。
1957年に発売されたThelonious Monk のアルバム『Monk's Music 』の中にその声は収められている。
一曲目のゴスペル調の小曲「Abide With Me 」に続く二曲目「Well, You Needn't 」の中でその声は聴かれる。
Monk はピアニストとしても偉大だが、作曲家としても偉大だ。その生涯を通じて非常に多くの曲を書いている。この「Well, You Needn't 」もMonk による作曲である。
Monk の書く曲の多くは彼の特異なハーモニー感覚やリズム感覚に則っているので、一聴して「なんだこれは!?」と違和感を抱くことが多い。
「Well, You Needn't 」は、奇妙ながらも心地好いメロディの跳躍が反復されるAメロと、和音のアルペジオが上昇して下降してという構成のBメロからなる。8小節のAメロが二回→8小節のBメロが一回→再び8小節のAメロが一回で合計32小節でワンコーラス、というまとまりだ。
テーマ演奏の後、Monk のアドリブソロに突入する。スリリングでユニークで、最高のアドリブソロだ。
ジャズのアドリブの多くは、テーマのサイズの上で演奏されることが多いので、Monk のアドリブソロも32小節×数回というサイズで演奏されるのかと思いきや、この時のMonk は2小節少ない30小節でアドリブソロを終えた。消えたその2小節はどこへ行ったのかは誰にもわからない。ひょっとしたら演奏の最中にMonk にしかわからないブラックホールのようなものがあって、2小節はその漆黒の闇の中へ吸い込まれてすぽっと消えてしまったのかも知れない、などという中二病的な妄想が止まらない。
Monk ははっきりとした確信を持って自身のアドリブソロを終えた。そして、その後にアドリブソロをとることになっていたサックスのJohn Coltrane がアドリブソロを始めないことに違和感を覚え、「コルトレーン!コルトレーン!」と彼の名前を呼んだ。お前の番だよ、早く吹きなよ、と。
その声は、このアルバムにはっきりと収められている。
Coltrane は面食らったことだろう。だって彼が入るのはその2小節後の予定だったのだから。
「え?え?おれ?」という感じでColtrane がアドリブソロに突入する。
その際に、「何か軽い事故があったっぽいけど、とりあえずうやむやにしちゃえ!」という感じでドラムのArt Blakey が爆音でドラムロールを鳴らすのが私はものすごく好きだ。
その後しばらくバンドは混沌とする。「あれ?どこ演奏してるんだ?なんかズレてねえか?なんかおかしいぞ?」と。
Coltrane が、フレーズに句読点を打つ為に休符を演奏するのではなく、明らかに「ん?なんだ?」と演奏を立ち止まったりするのもとても面白い。
不思議なもので、いつの間にやらバンドは通常通りの演奏を取り戻し、個性豊かな名人たちはこの後11分に及ぶ渾身の演奏を聴かせてくれる。
私はこの「Well, You Needn't 」がむちゃくちゃ好きだ。とても素晴らしい演奏だと思っている。
この時に、Monk は「間違った」のではないか?と考えるのは非常にナンセンスだ。2小節がぽっかりとどこかに消えてしまったのは、私には必然だったように思える。
2小節がどこかへ消えてしまったことによって、演奏は最上の煌めきを得たのかも知れない。
福神漬けはあまり美味くはなかったが、カレーと豚汁はいつものようにとても美味かった。
誰も間違っちゃいない。
そう呟いて私は松屋を出た。
豚汁に唐辛子を多めに入れてしまったせいか、私は額に汗をかいていた。
冬の訪れを知らせるような11月の冷たい風が、私の顔にとても気持ち良かった。
(了)
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