だいぶ「戻ってきた」なと、昨日ピアノの練習をしていて実感した。
先月末から今月の頭にかけては、全然ピアノを練習しなかった。随分なまってしまっていたのだが、二週間ほどかけてリハビリをしていたら、少しずつ戻ってきた。
楽器というのは上達するのはとても難しいが、下手になるのは簡単だ。サボれば良いだけだ。私は約一週間練習をサボったので、様々な部分が雑になってしまっていた。一週間ぶりの復帰の時には「おおー、弾けねええええ」と自分でも笑ってしまったほどだ。
とりあえず下手になってしまったことについては諦めて、普段通りのスケール練習やリズムトレーニング、それから複数のエチュードを弾いていたら少しずつ戻ってきた。
サボったのには理由があった。確信犯的にサボった。サボるよりほかなかった。
ピアニストのAbdullah Ibrahim 氏が来日していたからだ。
その一週間のほとんどは、Abdullah の為に費やした。彼の言葉を聞く為に。彼の音楽家として、或いは人間としての姿勢に触れる為に。そして何よりも、彼の音楽を聴く為に。
南アフリカ出身、85歳になる今日まで種々の衝撃的な作品やライブ演奏で世界を激震させまくっているこのピアニストは、私の一番の憧れのピアニストである。なので、全てのことを差し置いてAbdullah のことを優先させるのは私にとって当然の選択である。そこには微塵の迷いもなかった。仕事は全て断ったし、スケジュールはAbdullahの予定から逆算した。練習の時間が確保出来ないことも覚悟した。そしてその選択が間違っていたとは、今でも全く思わない。私は私にとって正しい判断をした。
《Abdullah Ibrahim コンサート概要~東京から京都へ》
これまでにも度々ブログ内で触れてはいるが、Abdullah を招聘したのは京都のジャズ喫茶「Lush Life」である。コンサートも「Lush Life」の主催で行われる。スタッフは全て「Lush Life」関係者によるボランティアであり、私もそのスタッフの一人である。もう何回もこの企画に参加している。ここの仲間たちに会えることも私にとっては大変な楽しみの一つである。Abdullah の招聘は、前回の2015年から四年ぶりのことであった。
ほとんどのスタッフが京都に住んでいるのだが、私は東京に住んでいるので(それから多分私がAbdullah の熱心なファンであるので)、Abdullah の東京滞在時の「カバン持ち」を仰せつかるのは、四年前の来日の時からだ。今回もそれを仰せつかった。羽田空港から東京某所のホテルまで、その後の東京某所のホテルから京都までの移動など、非常に幸運なことに私は憧れのAbdullah と多くの時間を共に過ごす機会に恵まれた。あまりミーハーなことを言うのも恥ずかしいのだが、控えめに言っても夢のような時間であった。
私と共に、英語が堪能なスタッフの田村氏が同席してくれたのは非常にありがたかった。私の英語力は中学一年生の「アイアムアペン」レベルであるので、どうしてもコミュニケーションに支障をきたすことが多く、田村氏の英語に随分と助けられた。
様々な話をAbdullah がしてくれたのだが、彼の話は難解にも程があった。
「私には私の作品などというものはない」と言う彼に「いやいや、私はあなたの作品に影響を受けまくっておりますよ」と答えると、道端の花を指差して「あの花は誰かが咲かせたものではないのだ」と彼が答える。私は「は、はあ…」と答える。ずっと万事がこの調子である。
水をグラスから別のグラスに移し替え「これは今、かたちが変わったが、同じ水である」とおっしゃった時には「何それ?方丈記?ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、的な?」などと思ったが、私の答えは常に全て「は、はあ…」であるので、この時にも全力で「は、はあ…」と答えておいた。Abdullah と過ごした時間の中で、私は頭に数え切れないほどのクエスチョンマークを浮かべた。
彼は極めて稀有な音楽家であると同時に、哲学者のようでもある。
《Abdullah Ibrahim ソロピアノコンサート at 上賀茂神社~準備編~》
9月28日と29日に京都の上賀茂神社で行われたコンサートについて触れたい。
初日、我々「Lush Life ファミリー」によるスタッフの集合時間は朝の8時であった。私は寝坊したので20分ほど遅刻した。集合場所は上賀茂神社の中にある建物「庁屋(ちょうのや)」である。ここでコンサートは行われる。
集まった人間たちで庁屋の中を掃除し、パイプ椅子と座布団を運び入れ、テントを設営し、照明を設置する。何度もやっている作業だ、その仕事は極めて効率的で流麗である。素晴らしいチームワークだと、自分たちの事ながら感心する。
朝9時過ぎにスタインウェイのフルコンサートピアノが庁屋の中に運び込まれる。名機中の名機である。このピアノを調律する久連松氏がまたすごい。氏の素晴らしさは、ピアニストである私には余計にわかる。ピアノの弦を一定の張力に合わせることだけが調律師の仕事でないことを氏は教えてくれる。氏の力にかかると、ピアノがしっかりと「鳴り始める」。超一流の調律師が調律した名機を、私の一番の憧れのピアニストが弾く、というだけでも胸が熱くなる。
突然久連松氏から私に「福島くん、ちょっとピアノ適当に弾いといて」と言われた。どうやら「馴染ませる」一環であるらしいのだが、そのような名機を触れる機会もそれほどないので「わーいわーい」と仕事をほったらかしてピアノを弾かせてもらった。何を弾こうかなと思ったのだが、頭の中がAbdullah のことでいっぱいになっていたのでAbdullah の曲を弾きまくった。それを聴いていたスタッフの方から「何であとから本人が来るのにお前がAbdullah さんの曲弾いてんねん」と笑われたが、今から考えれば私も確かにそうだと思う。何でおれがAbdullah の曲を弾いてるんだろう。ま、仕方ない。頭の中はAbdullah の事しかなかったのだから。
30分ほどしたところで久連松氏が戻ってきて、「どれ、だいぶ馴染んだかな」と言って調律を始めた。いよいよこのピアノをAbdullah が弾くのかと思ったら、心が躍った。
ほとんど全ての作業が終わって昼食の弁当を食べ終わってタバコなどを吸いつつだらだらしていた辺りで「ぼちぼちアブさんきまーす!スタッフ集合!」と誰かから声がかかった。Abdullah は我々の間では「アブさん」と呼ばれている。水島新司か。
控え室から庁屋に向かってゆっくりと歩いてくるAbdullah を、スタッフたちが笑顔と拍手で迎える。Abdullah も穏やかな笑みを湛えている。スタッフの前に来てAbdullah が感謝の言葉を口にする。いえいえ大将!あなたの為なら頑張りますがな!とみんなが思っている。なんとも素敵な光景である。
Abdullah はゆっくりと庁屋の中に向かい、ピアノの調子を確かめる為に少しだけピアノを弾く。四年前もそうだったのだが、Abdullah がピアノの鍵盤に触れるこの瞬間に、私の背筋に強烈な電流のようなものが走る。
そこにははっきりとした「Abdullah の音」が現れる。
それは恐らく世界中で聴くことの出来る「音」の中で、最も美しい音の一つだ。
リハーサルというほどでもない「ピアノの様子見」を終えて「パーフェクトだ」と満足してAbdullah は楽屋に戻った。ヤバいー!いよいよ始まるー!ヤバいー!と、私のボキャブラリーも半ズボンを履いて虫取り網を片手に走り回る小学生男子レベルになった。
この時点では私の心には若干の「怖さ」のようなものがあった。これまでに十回以上Abdullah の演奏を生で見ているが、取り分けこの上賀茂神社での演奏は凄まじい美しさと、心の奥底から揺さぶられるようなエモーショナルなものが混在するものである。音楽観や、下手をすると人生観まで揺さぶられる。これからそういうものに再び触れるのか、ということに対して若干の恐怖があったのだ。
また、もう一つ。ネガティブな恐怖感もあった。
私自身があまりにAbdullah が好き過ぎて、「ひょっとして衰えていたらどうしよう」という恐怖があったのだ。四年前の奇跡のような演奏、それに比べて今回は心を揺さぶられなかったらどうしよう、という気持ちもあった。85歳である(演奏時はまだ誕生日が来ていないので84歳だったけれど)。身体的な衰えがあって当然だ。それが演奏に影響を及ぼしていたら。ひょっとして私はがっかりしてしまうんじゃないだろうか。などと。
先に言おう。
ばーかばーかばーか。
もう一回言っておこう。
ばーかばーかばーか。
故事成語ブックで「杞憂」という言葉を五十回ぐらい調べやがれ!
ばーかばーかばーか。
結論から言えば、私はこの後とんでもない経験をすることになるのだ。何の心配をしているんだ、まったく。デイビフォーイエスタデイきやがれ。
《Abdullah Ibrahim ソロピアノコンサート at 上賀茂神社~初日~アブキャバのススメ》
演奏は、会場の中で聴いた。チケットを自腹で買うのだ。スタッフだからといってタダ聴きをすることは出来ない。これは私からすれば、とても良いシステムである。何が良いシステムかと言うと、多分「タダで聴ける」と言われても「いやいやいや!お金払いたいです!」と私は言うだろう。これは私がビル・ゲイツばりに収入があるからではない。極論を言えば、私は「この瞬間の為」に働いているのだ。Abdullah の演奏が聴きたい。その為に日々働いてお金を稼いでいる。そして、自分にとって大切なものにはきちんとお金を払うべきだという私の中のルールがある。きちんとお金を払えるのは私にとっては願ったりかなったりであるのだ。
初日の演奏が始まった。
Abdullah の演奏スタイルは昔からずっと変わらず、二部構成で一部二部共に「弾きっぱなし」の形を採る。一曲ごとに曲を区切るのではなく、複数の曲を即興演奏で繋げながら約一時間の物語を紡ぐのだ。原則として演奏されるのは自作曲のみであり、稀にDuke Ellington やThelonious Monk の曲などを演奏することもあるが、今回の演奏時にはなかったと思う。即興演奏で他の人の曲の断片が出てくることはあるのだけれど。
レコーディング作品(レコードやCDなど)もこのスタイルを採っているものは多く、「Abdullah の曲を(一曲単位で)聴くと、変なところで終わっている」と言われることがあるが、それは全てが繋がった一つの物語を便宜的にトラック分けしている為にそのようなことが起こるのだ、とその度に説明しなくてはならない。なので、Abdullah のレコーディング作品を聴く時には、最初から最後まで通して聴くのが望ましい。
初日の第一部は、少々記憶が曖昧なのだが、確かAbdullah の自作曲「Ocean and the river」で幕を開けたと記憶している。そのタイトルのように、どこまでも深く、そして澄みきった音色が庁屋に響いた。私は背筋がぞくぞくしていた。そのあまりの美しさに。美し過ぎて、少々怖いくらいだった。
不遜を承知で、ピアニストの目線でAbdullah の演奏の技術的な部分を少々解説すると、指先のタッチの素晴らしさはもちろんなのだが、両足のペダルの技術がとんでもない。残響音を伸ばす右足のサスティンペダルもそうだし、私が特筆するべきだと感じるのは左足で踏むソフトペダルである。グランドピアノのソフトペダルは、踏むことにより鍵盤とハンマーをほんの少し横にずらすことが出来る。通常であれば一つのハンマーは三本の弦を同時に叩いて音を鳴らすのだが、このソフトペダルによりハンマーがずれ、三本中二本の弦しか叩かないようになる。ソフトペダルを踏んでいる時と踏んでいない時とでかなり音色に変化が生じる。この音色の違いを巧みに組み合わせることで、ピアノの音色は非常に複雑で彩り深いものとなる。Abdullah のペダリングによりコントロールされたピアノは、時折ピアノではなく、何かしらの生き物が歌を歌っているようにも聴こえる。あまりに生々しいので。彼の右足のサスティンペダルと左足のソフトペダルの使い方は、本当に異次元のレベルだ。恐らく世界一であると言っても過言ではない。
そのように巧みにコントロールされた音色でもって、どこまでも美しいメロディが次から次へと奏でられる。
四年前より良い、と私は感じた。
四年前に同じ上賀茂神社の庁屋の中でAbdullah の音楽を聴いた時に、私は自分の人生の中では最も素晴らしい音楽を聴いていると感動したものだが、私の中の「最高値」を目の前のAbdullah があっさりと越えていった。冗談でも何でもなく、人間は80歳を超えてなお進化できる。年老いることに対する慰めの言葉ではない。これは紛れもない事実なのである。
彼の熱心なファンである私からすればすっかりお馴染みの彼の曲が次々と奏でられる。さながらヒットメドレーである。ああ、最高だ。そんな夢見心地の中で初日の前半が終わった。
そんな中で、異変が起きた。
異変が起きたのは、後半が始まってから間もなくしての事だった。
いつものように深淵な音色からゆったりと始まったかと思っていたら、そこから彼のインプロビゼーション(即興演奏)は、急加速を始めた。
両手の10本の指は縦横無尽に鍵盤の上を舞い、リズムは軽やかに躍動した。
あれ?あれ?こんなAbdullah は見たことがないぞ?と一瞬呆気に取られたが、すぐさまその演奏に身を委ねた。それはまさに、彼の生まれ故郷であるアフリカの大地に抱かれているかのような感覚だった。至福だった。私はアフリカには行ったことはないのだけれど。
アフリカ。
1973年にAbdullah が発表したアルバム「African Piano」は、世界中に大きな衝撃を与えた。ジャズの語法の中に大胆に散りばめられたアフリカ音楽のロジックに、当時の多くのジャズファンたちは「これがアフリカか!」と驚いたという。20世紀の音楽史に残る名盤であると私は思っている。
そのアルバムで聴かれる若いAbdullah の演奏は、現在のAbdullah の演奏とはいささかながら異なる。そこには「怒り」や「喜び」のような人間の根源的な感情の発露も見える。簡単に言ってしまえば、現在のAbdullah に比べれば若い頃の彼はかなりアグレッシブだ。
そういうところを指してなのか、現在のAbdullah と若い頃のAbdullah を比べて若い頃のAbdullah の音楽の方がアフリカ色が強い、とする意見をしばしば聞くことがあるが、私はこれには完全に反対する。Abdullah の音楽は、今でもアフリカそのものだ、と私は心底から感じているからだ。
左手のベースラインにより描かれる広大な大地と、右手のメロディが表現する「生命の息吹き」。どこからどう考えてもアフリカそのものなのである。アフリカ行ったことないけど。
目の前で「ワシは即興演奏家なのである!」と言わんばかりに即興を繰り広げるAbdullah は、実に楽しそうだった。もちろん私もめちゃくちゃ楽しかった。
自分の曲をモチーフにした大即興大会は、約一時間に及んだ。私は途中で何度も涙が出た。あまりに素晴らし過ぎて。私は滅多なことでは音楽で涙を流すようなことなんてない。多分感情と感受性に乏しいのだ。しかしそんな私にも、それはぎゃんぎゃんに響いてきた。
「生きてて良かった」と思った。
陳腐だが、本当にそう思った。
死にたい時なんて毎日のようにあるし、自分が生きていることに何の価値も見出だせない時だってある。いっそのこと人生をさっさと終わりに出来ればどれだけ楽か、と思うことは度々ある。
けれど、死なないで良かった。生きてて良かった、と心から思った。こんなに美しいものに触れられるなんて。やはり念のためにも生きておくべきである、と思った。それぐらい魂を揺さぶられる音楽体験だった。見れなかった人は本当にかわいそうにと思うよりほかない。逆に私は、何を差し置いてもこの音楽体験を最優先させた自分が正しかったと自分で納得するにも至った。
本当に生きてて良かった。
で、一つだけネガティブなことを。
コンサートに関して、私は個人的に一つだけ苦言がある。これはもちろん自戒を込めて、でもあるのだが。
アンコールについてである。
初日、二日目共にAbdullah は一部二部が終わった後にアンコールで小曲(タイトル失念)を弾いてくれた。
その演奏は、完璧であった。完璧に美しかった。
しかし、アンコールは必要だったのか?という気持ちが私の中には今でもある。それは演奏の中身についてではなく、私たち聴衆のモラルについての問題である。一部二部共に一時間を超えるノンストップの演奏を見せてくれた巨匠に「もう一曲だけ」とねだるのはどうだろうか、という気持ちがあるのだ。
確かにアンコールを弾いてくれたら私も嬉しい。そこまで聴けてお得感もある。
だが、もう十分でしょという気持ちも同時にある。アンコールの要求をAbdullah への賛辞にするのではなく、もうひたすらに拍手とスタンディングオベーションで良いのではないかな、という気持ちだ。
ここに関しては様々な意見もあるだろうと思う。
私は、私なりのAbdullah への敬意として今後は「アンコール不要論」を唱えていきたい。ま、本人が弾きたいと言うならばもちろん大歓迎なのだけれど。
で、アンコール不要論と同時に「しかしこの演奏体験後の熱狂をどのように収めれば!?」という意見に対しても私は対策を用意している。
私が提唱するのは「アブキャバのススメ」である。
「アブキャバ」とは、「アブドゥーライブラヒムキャバクラ」の略称である。私たちは初日の演奏終了後にスタッフの仲間たち数人とこの「アブキャバ」を開催した。
具体的には、安居酒屋などに行き
「なんなんだ今日の演奏は!神か!」
「あー!生きてて良かった!もう死んでも良い!」
「アブさん最高!いやー、酒が美味い!」
と狂乱状態を過ごす状態のことを言う。おもてなしをしてくれるホステスはまさに先ほどまでの音楽体験なので、それを思い出し語り合うだけでものすごくうっとりする。そういうキャバクラであるのだ。
もちろん誰でも参加できる。その演奏に熱狂したその熱は、そこで冷ますと良い。なかなか冷めないんだけど。アンコールの代わりに「アブキャバ」。これは今後私が提唱していきたいモラルの一つなのである。
その「アブキャバ」でのことである。
スタッフ仲間の山田氏に「福島は同じピアニストとして、あんなすさまじいものを見てしまったら「オレもうやめとこかな」と絶望するようなことはないんか?」と聞かれた。私は即座に「ないっす」と答えた。
私の目指す「音楽」というものはここまで美しくなれる、こんなに高い頂まで行ける。それを考えたらAbdullah の演奏は希望であり光でしかない、と私は感じていたし、そのように伝えた。山田氏は「なるほどそれは確かにそうやな!」と納得してくれた。
同じくスタッフであり昔からの音楽仲間でもある後輩の鶴賀もこの「アブキャバ」に参加してくれた。そしてAbdullah の演奏の素晴らしさに対して様々に意見を交わした。この会の開催には私は非常に意義を感じている。
まじでビールが死ぬほど美味かった。
《Abdullah Ibrahim ソロピアノコンサート at 上賀茂神社~二日目~打ち上げ》
二日目の演奏ももちろん素晴らしかった。
二日目は、初日の後半部分、つまり「大アドリブ大会」を最初から引きずっている感じで、前半から既にノリノリであった。私はもう何が起きても驚かなかった。やはりAbdullah はとんでもない規格外の存在であることを前日に確認済みだったからだ。
二日目の演奏中には嬉しいアクシデントがあった。
雨が、降ってきたのである。
最初はしとしと、という程度だったのだが、演奏中にその雨脚は徐々に強さを増した。雨音がはっきりと聞こえるようになってきたのだ。
当日は気温が非常に高かったこともあって、庁屋の戸を数ヶ所開けていた。なので雨音と虫の音が、庁屋の中に広がるのである。
想像してみてほしい。
釣った直後にきちんと血抜きをした白身魚のマゴチを冷蔵庫で熟成させて五日目、薄造りにしたマゴチの刺身に軽くスダチを搾ってからヒマラヤ系のピンク岩塩などを振って食べてみたら?
もちろんそんなのは「死ぬほど美味い」に決まっている。日本酒もってこい!
ではもう一度想像してみてほしい。
世界遺産の上賀茂神社庁屋の静寂の中で聴く雨音、虫の音、これだけで最高なのである。そこにAbdullah の至高の音楽が合わさったら?
正解は、「生きてて良かった」である。
本当に私はこの二日間の演奏の最中に何度も何度も「生きてて良かった」と思った。途轍もない幸福感の中にいた。Abdullah の音楽は、生を肯定する。おそらく、死をも。どこまでもそのスケールはでかい。
二日目の演奏の終盤には雨が上がった。Abdullah の佳曲「Blue Bolero 」の最後の一音が物語の最後の句読点を打ち終えた時には、私を含めた聴衆たちは皆、最上の安らぎの中に包まれていた。
私の知り合いもわざわざ東京から何人かこのコンサートに来てくれた。わざわざ東京から来る価値があると私は思っている。
その人たちと終演後に挨拶などをするのだが、私はずっと興奮していたようで、色んな人から「あんなに興奮してる福島を初めて見た」と言われた。
興奮するよ、そりゃあ。
その翌日には、京都の某所でコンサートの打ち上げが行われた。これは主催者の「Lush Life」のオゴリである。すき焼き食べ放題であった。
実は四年前のAbdullah のコンサートで、「Lush Life」主催のコンサートは一旦終了にしようという話があった。原因はスタッフの高齢化である。初めてこの一連のコンサート企画に参加した時、私は二十代の前半であり、スタッフの中でも最年少の部類だった。
それが私も40歳である。他のスタッフたちも同様に年齢を重ねている。70歳を超えているスタッフも少なくない。力仕事も多いこの企画の開催に幾つかの困難が伴うのだが、今回に関してはAbdullah からの熱望により開催となった。開催出来たことは本当に良かったのだけれど。
そう、スタッフも高齢化しているのである。そこでのすき焼き食べ放題である。
私と同じテーブルになったスタッフの須藤氏も70歳ほどなのだが、
「福島くん、もっと肉食べえや。わしもう食べられへん」
「いや、須藤さん、ぼくももうめっちゃ食べてます。もうお腹ぱんぱんです」
「いや、もっと食べえや」
「うす。頂きます」
何のフードファイトだ。美味かったのだけれど。
高齢化したスタッフたちのすき焼き食べ放題は、なかなかにハードルが高かった。
食べきれない肉を女性陣がサランラップに包んで持ち帰っているのを見て、関西のオバチャンたちのたくましさを実感した。とても正しい行為だと思う。
打ち上げにはAbdullah も同席してくれた。スタッフたちがかわるがわるAbdullah のもとに行って感謝の言葉を述べる。
スタッフの一人、尾形くんはつい最近結婚をした。奥さんも尾形くんの隣にいた。
尾形くんがそのことをAbdullah に伝えると、Abdullah は「そうかそうか!おめでとう!」と言って立ち上がって歌を歌い始めた。そのメロディは、彼のヒット曲の一つ「The Wedding」であった。
期せずして全員で「The Wedding」の大合唱が始まる。「おいおい!最高の祝福だな!」と思った。
Abdullah はそのあとも終始ご機嫌だった。
帰る時には、アフリカの人々の間でよく歌われる民謡を歌いながら帰っていった。世界的なピアノの巨匠が、普通のアフリカのおじいちゃんに戻っていた。
《再び東京へ~帰国》
その翌日の朝に、私はAbdullah が宿泊するホテルに向かった。Abdullah は京都から東京に移動する予定であり、私もそこに同行することになっていた。
Abdullah は昔からずっと日本の古武道を学んでいる。その古武道の師が東京にいるので、数日間古武道の稽古をしてから現在の住まいであるドイツに帰国する予定だったのだ。
ホテルから京都駅へ。そして新幹線で東京へ。
新幹線は品川駅で降りた。品川駅では英語の堪能な田村さんが再び待ち構えてくれていて、一緒にタクシーに乗り込んだ。
品川駅からAbdullah の宿泊するホテルへ向かうタクシーの中で、私は勇気を出して思い切った行動に出てみた。
四年前に出版した私のソロピアノのCDを、Abdullah に渡してみたのだ。
「あの、大変恐縮なのですが、これ、数年前に出したぼくのCDです。良かったら聴いて頂けませんでしょうか」と言いながら。
Abdullah は「おう!ありがとう!絶対聴くよ!」と言ってくれた。実際聴いてくれたかどうかはわからないけれど。
そしてAbdullah は私のCDをまじまじと眺めながら、「良いタイトルだ」と言ってくれた。
私のソロピアノのCDのタイトルは『Self Expression』という。
ホテルに着いて荷物を置いてから「じゃ、帰ります」と言うと、Abdullah は「まだ帰らなくて良いだろう。とりあえずワシの部屋に来なさい」と言って、田村氏と私を部屋に招いてくれた。
緊張しながら部屋に入る私と田村氏に、やはりAbdullah は様々な話をしてくれた。相変わらず難解な話も多かったのだけれど。
そして「先ほどのCDのタイトルだが」と話し始めてくれた。
「お前が表現するのは、お前自身でなくてはならない。その意味で実に良いタイトルだ。今後もひたすらにお前自身を表現し続けなさい」と、私にアドバイスをくれた。
私はその時ばかりは「は、はあ…」ではなく、力強く「はい」と答えた。
ホテルを後にした。それからAbdullah には会っていない。
その数日後に、ピーター·バラカン氏のラジオ番組にAbdullah が生出演する際に、ラジオ局へ向かうタクシーの中から電話をくれた。電話をくれたのはAbdullah の日本での通訳を務めるスタッフ仲間の矢野原氏であるのだが。
矢野原氏が
「今ラジオ局に向かうタクシーの中なんですが、Abdullah が福島さんに電話をかけてこれから出演するラジオを聴くように、と言っています」と伝えてくれたので、「すでにラジオの前でスタンバイ済みです。必ず聴きますとお伝えください」と言った。
ラジオは、ピーター·バラカン氏とAbdullah がひたすら英語で喋りたおすので、話の五割ほどしかわからなかった。
Abdullah はこれからの自身の活動に対する希望を語っていた。
「さすがだな、まだまだやる気だな」と思った。
Abdullah が帰国してから、私は普段の日常に戻り、ピアニストとしての生活を再スタートしている。
スケール練習をする。何の為に?自分自身を表現するために。
リズムトレーニングをする。何の為に?自分自身を表現するために。
物事を思考する。何の為に?自分自身を作る為に。
もう迷わなくて良い。ただひたすらに、そこへ向かえば良い。
末筆になるが、「Lush Life」の茶木夫妻を始めとしたスタッフ、関係者たちに心から感謝の気持ちを伝えたい。
もちろん、偉大なAbdullah Ibrahim にも。
最近のコメント