私がオジサンになっても
電車の中、向かいに座っている割と盛大にハゲ散らかしたおっさんが、「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいる。白水Uブックスの。野崎孝訳の。
私が10代から20代前半にかけて、多分200回ぐらいは読み返したのがこの「ライ麦畑」だ。まさしく白水Uブックスの。野崎孝訳の。全く同じやつ。
おっさんが手に持った青とクリーム色のその表紙を見るだけで、若い頃の青い恥ずかしい気持ちが蘇ってくる。
そして、親友だと思ったり、自分を投影したりしていた主人公のホールデン・コールフィールドが、目の前に突然現れたような気になる。
それぐらい、その表紙を見たら私は動揺してしまった。
「ライ麦畑」は、若い人が読む小説なのではないのか?
私は一瞬そんなことを考えたが、考えた瞬間にそれを恥じた。「ライ麦畑」は、おっさんが読んでも良い。当たり前じゃないか。
では、と考えた。
ハゲ散らかしたサラリーマン風のおっさんは、何のために「ライ麦畑」を読んでいたのだろう。
若い人の気持ちを理解するため?
いや、違うだろう。おっさんもきっと「ライ麦畑」を若い頃に500回ぐらい読んだクチなのだ。自分の悩みや苦しみを唯一わかってくれるのがホールデンだと思っていたクチなのだ。
ハゲ散らかしたおっさんは、古い親友のホールデンに再び会いに行っていたのだ。そうに違いない。
そう考えてみれば、ハゲ散らかしたおっさんの顔が、悩み多き少年の顔つきになっていたような気がしないでもない。
今、完全無欠に汚ないおっさんとなってしまっている私が、再び「ライ麦畑」を読んだらどうなのだろう、と考えた。
どのようなことを思うのだろう。そしてどういうホールデンやアックリーやモリーに会うのだろう。
読んでみたい。
少々、というかかなり怖いのだが、読んでみたい。
読む際にはやはり白水Uブックスの野崎孝訳のやつに限る。村上春樹訳も良いし、もちろん英語の原文も良いのだが、やはり思い入れの観点から、白水Uブックスの野崎孝訳だ。
読んでみようかな。
(2019年vol.5)
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