商売が商売であるので、日々様々な音楽を聴く。好きなものもあれば、どうにも好きになれないものもあるし、素晴らしいなと思うものもあれば、くだらねえなと思うものもある。そこはあくまでも私の主観であり、どうでも良いことだ。
そうして「資料」として音楽を聴く一方で、趣味として、つまりは自分の悦びとして音楽を聴くのかどうかと言えば、これも割りと聴く。現在はやむなく優先順位は「仕事>趣味」となっているので、資料としての音楽を聴くことの方が圧倒的に多いが、それに少し疲れた時には、ゆっくりとお気に入りのレコードを聴いたり、何ならパソコンのYouTubeで音楽を聴いたりもする。
何を聴くかと言えば、やはり8割方はジャズを聴く。何だかんだでジャズが好きなのだ、私は。
それ以外、となると、その時の気分にもよる。最近では衆議院選挙が近付いていることもあったので、さだまさしの『フレディもしくは三教街』などを聴きながら、「人々のささやかな幸せを、戦争は無慈悲に奪っていってしまう!戦争に加担しようなどという政党に誰が投票などするものか!」と偏った思想を深めていった。
また、免許証の更新の時期が近づいてきたので、同じくさだまさしの『償い』を聴くことで「交通事故はマジでこええ」と思うと共に「人間って哀しいね、だってみんな優しいもの」としんみりしたりしてみた。
少々心が疲れている時に聴きたくなるのは、中島みゆきで間違いない。とりわけ若い頃の彼女の一連の作品群に共通するドロドロとした人間の情念に触れることで、「あ、おれはまだ大丈夫っ…………っぽい!」と、一種のカタルシスを享受する。
彼女の若い頃の佳作の一つに『愛していると云ってくれ』というアルバムがある。私の愛してやまない作品だ。
冒頭からみゆきはトバしまくる。
アルバムの一曲目は、『元気ですか』というタイトルの朗読だ。歌ではない。
「元気ですかと電話をかけました。あの人のところへ電話をかけました。イヤな私。やめようと思ったけれど、色んなことわかっているけど、わかりきっているけど、電話をかけました」
まだ日本にストーカーという言葉が定着する以前の話である。
作中では現在でいうところのストーキング行為がこれでもかと繰り広げられ、『元気ですか』は、以下の言葉で締めくくられる。
「でも、今夜は私、泣くと思います。うらやましくて、やっぱり、うらやましくてうらやましくてうらやましくて。今夜は…泣くと…思います」
そのあまりにドロドロとした情念に背筋が凍りつきかけたその刹那、切り裂くように二曲目の絶叫がこだまする。
「れええええいいこおおおお!」
そう、お馴染みの(多分お馴染んでいない)『怜子』である。大体このコンボで全ての問題は解決する。それほどまでにそのカタルシスは強力だ。
おそらく初めて聴いた方は、ドン引きするか「あ、自分がいる」と共感するかの二つに別れるだろう。まるで太宰治の『人間失格』みたいだ。私はもちろん後者だった。そして今は一周まわって大笑いしながらそれを愛でることができる。深刻さと引き換えにタフさを手に入れたのだ。
その後も『化粧』では、愛されないとわかっていながらも良く見られたいと考える人間が描かれ、『おまえの家』では時の流れの中ですれ違っていく人間が描かれる。アルバムの最後を締めくくる『世情』を聴くたびに、加藤優が「オレたちは腐ったミカンじゃねえんだ!」と脳内で叫ぶ。
寂しくも滑稽で愛おしい、人間の「孤独の風景」に、私は今でも強く惹かれてしまう。
さて、本日10月18日は、小岩「Back in time」で、月イチ恒例「歌声酒場」である。本日のベースはヤマチハさん。
会の主軸は「ジャズボーカルセッション」であるので、もちろんそれを中心にやりたいのだが、どうしてもまっさんの『フレディもしくは三教街』が歌いたいという方がいれば、それを演奏するのもやぶさかではない。みゆきの『元気ですか』を朗読したいという方がいれば、私は楽器を弾かずに黙ってそれを聴こう。
皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
フレディ
あなたと
出会ったのは
漢口(ハンカオ)
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