正直に(あるいは誠実に)即興演奏をするために
即興演奏について最近考えていることを。
注:)マジメです。
私が普段演奏しているジャズという音楽には、即興演奏の要素が濃い。最近はこの即興演奏の本質について考えることが多い。
即興演奏とは端的に言って以下のようなものであると私は考えている。
・出したい音を
・出したい音色(またはリズム)で弾く
ということだと思っている。
だとすれば、それに対して必要な訓練は、大きく分けて二つ。
・メロディを思い浮かべられるようにする訓練
・それを楽器を通して正確に表現する訓練
である。
楽器の訓練ということに関して言えば、楽器が身体の一部になるようにするというのが何よりの目的である。
当たり前だが、当初、楽器は身体の一部ではない。身体と楽器は他人であり分断されている。しかし、楽器の達人たちを見るとそうではない。まるで身体の一部のように見える。熟練のピアニストを見れば、椅子に座った身体から伸びた腕先、指先、これらは間違いなく演奏者の身体の一部であるが、本来分断されているはずのその先のピアノまでもが演奏者の身体の延長であるかのように見える。
「楽器の修練」ということだけに関して言えば、目的は全てここに集約されている。いかに楽器を自由に操る事が出来るか、というこの一点である。
では、楽器を自在に操る事が出来るようになったら無条件に良い音楽が出来るかと言えば、そうでもない。いかにたくさんの語彙を正確な知識で持っていても、話す内容がしょうもない人間がいる(私である)のと同様に、「話したい中身」、つまり「出したい音」が伴わなければその技術は宝の持ち腐れとなる。話したい中身、出したい音が何なのかという事を追求することは、楽器の訓練と同じぐらいに必要な事だと私は感じている。
即興演奏に関して、こんな男らしい意見もちらほら聞く。いわく、
「本当にその瞬間に出したい音だけを出せ。もしそれが思い浮かばなければ何も音を出すな」と。
これは即興演奏の本質的な部分では実に正しい言い方であると思う。これを更に突き詰めていけば「譜面にはこれこれこう書いてあるが、今はそれは弾きたくないので弾かない」ということにもなるのだが、それは現実的ではない。
仮に私が演奏の仕事の現場で「譜面にはこう書いてあるが即興演奏者としての私の意見とは乖離するので今はそれを弾かない」などとのたまえば、その時点で業界用語で言うところのビークー、つまりクビになることは避けられない事態である。何も浮かばないからと言って何も弾かず、その言い訳として「私は何も弾かなかった訳ではなく、即興演奏としてジョン・ケージ氏の作品『4分33秒』からのフレーズを引用したのだ」などと言っても「こいつはピアノ弾けないくせに訳のわからない能書きをこくからクビ」となるのである。
現実的には、心の底から出したいと思っていない音だっていくらかは出す。それは不誠実だと言われてしまうかも知れない。けれど仕方のない時だってあるのだ。
「心底から出したい音」とは何なのか、ということを追求する時に、私は一つの逆説的な意見に辿り着いた。
心底から出したい音が何なのかを知るためには、出したくない音を知ることもまた重要である、と。
結論から先に言おう。私は、即興演奏においては「飽きる」というプロセスが非常に大事だと思っている。
演奏中にこんなことを思うことがある。「ここはこうやって弾こうかな。あ、でも待てよ、さっきも似たようなこと弾いたな。また同じかよ。おれは目張りをしっかりした車の中で練炭などを焚いて一酸化炭素を存分に吸い込めば良いんじゃないのか?」と。この間、約0.2秒ほどである。そして、この懊悩の後に、やっぱり同じフレーズを弾いてしまったり、あるいは少し違うアプローチをしたり、色々な結果になる。
この「さっきも同じようなことをやったなあ」というのは、私がその行為に飽きてきているということに近い。飽きてくると、段々とその音を出したくなくなってくる。そこで私は「出したい音」の逆、「今、出したくない音」が何なのかを知ることになるのだ。
「これはさっきもやったし今はナシ!その代わりにこんな感じのアプローチで…」と音を出してみたところ、「ギャア!ダサい!おれは真冬の富士の樹海に行って、樹の傍らで多目の睡眠薬などを摂取して眠りつつ体温をどんどんと奪われてしまえば良いのに!」と約0.1秒の間に考える。必ずしも満足のいく結果にならない時もあるのだが。
合奏している時などには、合奏者の発した音に反応してその返答は臨機応変に変えなくてはならない。これもまた即興演奏の楽しみの一つではあるのだが、ここにおいてもやはり「飽きる」プロセスは重要なように思うのだ。毎回同じような音楽的会話ばかりをしていては飽きる。だからたまには違う会話もしてみようよと誰かが提案すれば、演奏者たちはいやが上にも新しいフィールドに連れて行かれる。そうすることで、当人たちにとっては新しい世界が広がっていくのだ。
では、「飽きる」為には何が必要かと言えば、「飽きるほどやる」という事である。
私は自分の性格として自覚しているのだが、全く飽きっぽくない。一つのことを始めると、ずーっとそればっかり飽きずにやる癖がある。未だに大好きな魚釣りだって小学生の頃からの趣味だし、このブログだってもう10年以上書き続けている。私はなかなか飽きにくい。
なので、飽きるほどに一つの音を出す、ということが私には大切なのだ。何回も何回も繰り返すことで、やっと飽きてくる。飽きてくると、それ以外の方策を模索する。そこで初めて、自分が今本当に出したい音というのは何なのかなと朧ろげに見えてくる。
なので、新しくてエキサイティングな事をやるために、飽きるほどに古いことをやるというのが私のやり方である。
そもそも私は「古いこと」が重要だと思っている。そこを存分に理解することで、必ず「新しいこと」に繋がるのだと。
「古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう。古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう。なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る。古い水夫は知っているのさ、新しい海の怖さを。」(吉田拓郎『イメージの詩』より)
古いことの模倣をするだけでは決していけない。最終的には必ず「自らの言葉」で、「正直に」、「虚飾を捨てて」喋らなくてはならない。丸裸にならなくてはならない。その為には、飽きるほどに古いことを模倣し、虚飾も付けてみることも大事かも知れない。
無駄なことをたくさんやって、それに飽きる。
これが当面の私の課題なのである。
飽きるほどにやるためには、本当に何べんもやらなくてはならない。
よーし!やるぞー!頑張って飽きるぞー!
と、意味のわからない決意をするのである。
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