ポケモンゲットだぜ!
流行ってるらしい、ポケモンが。
私はやっていないので詳しいことはわからないが、想像するに、室伏広治のアニキが街中で見かけた珍妙な人物に赤と白でカラーペイントした鉄球をぶつけて見事側頭部にヒットして脳漿がびしゃーびしゃーと噴出したら、晴れて「ポケモンゲットだぜ!」となるというゲームであろう。
いやー、室伏広治のアニキの投げる鉄球は殺傷能力高いからねー。即死だよ、即死。
いやー、やってますねー、みなさん、ポケモン。気になってやってる人を電車の中で探してみたら、右を向けば室伏、左を向けば広治、前を向けば重信(父)、後ろを向けば由佳(妹)ですよ。最強の遺伝子が車内中に蔓延しておりますよ。
そんなにみんながハマるぐらい面白いんだったら私もちょっくら…
とはならない。単純に天の邪鬼だからだ。ブームが遥か過去へと去ってみんなが「ポケモン?あったねー、随分やったわー」と遠い目をしながら言っているような時期になったら、やおら「ポケモンゲットだぜ!」を連呼しながらポケモンマスターを目指したい。いや、多分やらないとは思うけれど。
このブームについて少し。
この手のかなり莫大な規模でのブーム、特に「スマホを使ったゲーム」というフォーマット上のブームであるので、批判をする人たちも少なくない。
「歩きスマホは危ない」という論点ならばわかるが、それ以外に散見する「こんなもんやってたらバカになる」だの「こんなものに熱中する人間はくだらない」だのの批判。それらを聞くたびに、「うるせえな、好きにさせろよ」と私は思ってしまう。また、これをやったことでバカにはならない。バカであることとポケモンとの因果関係は立証できない、とも思う。
例えば私が小学生の頃、ファミリーコンピューター、いわゆる「ファミコン」の全盛期であった。私たち小学生は、ビックリマンシールとミニ四駆、そしてファミコンに夢中であった。
スポーツもやったし勉強もやったし、虫を捕まえては残虐な殺生もしたし(子供ってやるんですよ、こういうこと)、ファミコンもやった。私だけじゃなくて多くの子供たちがそうやって過ごしていた。
その当時も「ファミコンをやるとバカになる」という大人たちの意見は当たり前に存在した。いわく、「現実と非現実がごっちゃになる」だの「想像力に乏しくなる」だの「人生はゲームと違ってリセットができない」だの。
ならねーって。知ってるって。
現在も、私は非常に罪深く愚かで恥ずかしい人間ではあるが、それは子供時代にファミコンをやってきたからではない。ファミコンをやらずに育ったら立派な人間になったかと言えば、おそらくなっていない。私がカスである事とファミコンをやっていた事との間には因果関係はないのである。
では、私のカスな人間性を作り上げるのに非常に悪い影響を与えたものとは何かと言えば、むしろ大人たちが積極的に勧めてくる「文学」なのである。
私は今、強く思う。ポケモンはやってもいい。しかし、文学や哲学などはやらない方が良い。かなりの高確率でカスになる、と思っている。
例えば学校の国語の教科書にも載っている石川啄木。彼などはなかなかにカスの極致である。
例えばこんな短歌作品。
一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと
現代語訳「おれに謝れとか言ったやつら全員死ね!マジ死ね!」
ね。カスでしょ。
ちなみに啄木くん。かなり激しめの女遊び(風俗通い)癖があり、それが原因で借金に借金を重ねてなおかつその借金は返さない、というパーフェクトなクズっぷり。いやはや、ここまでカスだと逆に気分が良い。
言っときますからね!石川啄木はカスですよ!私は好きですけど!
他にも挙げだしたらキリがない。
太宰治はカス中のカスだし、坂口安吾もカスだなあ。大体みんな「酒呑んでクスリやって好きなだけ書き散らかす」というタイプだ。あ、タイプは違うけれど宮澤賢治も強烈。筋金入りの不思議ちゃん。ドストエフスキーもカスだし、バロウズとかギンズバーグももちろん。引きこもり系ではドイツのカフカもそうだし。
という訳で、ポケモンよりも遥かにこちらの方を大人たちはより強烈に批判するべきなのである。「あんなもんばっかり読んでたらカスになるぞ!」と。事実私はカスになった。最近はさすがにそんなことはなくなってきたが、二十代の前半ぐらいまでは「金は働いて稼ぐもの」ではなくて「女や友人から借りるもの」と思っているフシがあった。全て上記のようなカスたちの影響のせいだ。文学はとにかく危険である。
という訳で、気にせずどんどんポケモンだろうが何だろうがやれば良いと思うのである。
ただし、文学や哲学はいかん。あんなものをやると人間が腐る。国は早くあんなものを禁止するべきなのである。
もう遅いかなー。手遅れかなー。
最近のコメント