忘れ物・なくしもの
数日前に訪れた近所の呑み屋で、「これ、多分お客さんの忘れ物ですよね?」と店員から差し出されたピースライトという煙草は、自信はないが十中八九私のもので間違いないので受け取っておいた。
私の忘れ物癖はなかなかにハイレベルだ。呑み屋できちんと煙草を持ち帰れること自体が稀だ。昔は「なくした時の精神的なダメージが低いから」という理由でショートホープを吸っていた。殆どの銘柄の煙草が一箱20本入りなのに対してショートホープは一箱10本入りなので、なくしてもダメージは半分で済むだろうとそういう寸法だ。
例えば傘などは、持って家を出れば、帰り道では確実になくして帰るので、私はよほどの豪雨でない限りはそもそも傘を持たずに家を出て雨に濡れることを選択する。あと、手に何かを持つのがすごくイヤってのもあるけれど。
そうやって考えて先日も傘を持たずに家を出たら、あまりの豪雨で全身びしょ濡れになったので、たまらずにコンビニで傘を買った。私はアホか。
最近では少々ダメージの大きな遺失物をやらかしてしまい、一つは年明けに購入したピアニカ(鍵盤ハーモニカ)だ。どこでなくしたかはわからない。だが、どこかでなくした。気がついたらなくなっていた。一万円ぐらいしたのに。循環呼吸も少し出来るようになってきていたのに。
多分ずっと出てこない。仕方ないからと新しいピアニカを購入したら出てくる。探し物とは大体においてそういうものだ。
あとは昨日、筆箱をなくしている事に気付いたのだが、これは何となくどこかから出てきそうな気もする。
私は音楽家ではあるが、ピアノという楽器を扱う職種であって実に良かったと、この忘れ物癖の観点から思うことがある。楽器を持ち運ばなくて良いからだ。
仮にギタリストだった場合、常に自分のギターを持ち歩かなくてはならないわけで、そんなものをなくさずに持ち続けることなど到底不可能だろうと思う訳だ。
「大事なものはそうそうなくさない」、あるいは「なくすぐらいならそもそもそれほど大事ではないのだ」などとお叱りを受けるかも知れない。しかし私は反論したい。大事なものから先になくしていくのだ。それは「人生」に似ている、と。
実を言えば、それほど大事ではないものというのはなくした事にすら気付かない。なので、事実なくしていたとしても気付いていないので、なくしていないことと同義になる。大事なものはなくすけれどもなくしたら気付く。
ギターという楽器は、安ければ5000円ほどで買える。高いものは100万円以上する。もちろん、基本的には値段の上昇と共に楽器の品質も上昇する。さすがに私も5000円と50万円のギターの違いぐらいはわかる。高い楽器の方があらゆる側面から見て安い楽器よりも優れている事ぐらいは、「楽器なんて音が出りゃあ何でも良いじゃん病」に罹って久しいこの私にもわかるのである。
それでも私がもしもギタリストであれば、5000円の楽器を選択し愛用する可能性は極めて高い。理由は「どうせなくすから」である。
ちなみに私は趣味でギターを弾く。これまでに人生の中で購入したギターは全部で10本弱ほどある。しかし、手元に残っているのはfenderのストラトキャスターというエレキギターとMartinのバックパッカーという小さなギターの2本のみだ。残りは全てどこかへ消えた。なくした。昔高校生の頃に買った中国製オベーションのエレアコやらインドのデリーで20ドルで買った「ギタール」というふざけた楽器たちはどこに消えたのだ。謎である。
なくしたものが高価であればあるほど、私のようにケチな人間は精神的なダメージを被る。なので、そのダメージを軽減するつもりでもなるべく安い楽器を、というのが正しい思考回路なのだが。
それでもなかなかうまくはいかない。今年の年明けにピアニカを購入しに行った時には、5000円のものと10000円のものとあって、10000円のものの方が鍵盤の数が多く、「そりゃあこっちだろ!」と迷わず10000円のものを購入していた。どうせなくすのに、とはその時には考えていない。
タイムマシンに乗って数ヵ月前の私の元に行って「どうせすぐなくすから安いのにしとけ」と言ってやりたい。何度同じ失敗を繰り返せば人は学ぶのだろう、とボブ・ディラン風に自分を説教したい。
という事で私はなくしたピアニカを探している。
あれは今、どこにあるのだろうか。
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