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2016年4月26日 (火)

余計なことを考えるのは決して悪いことではないのではないだろうか

先日行われた羽生善治名人と佐藤天彦八段による将棋名人戦第二局。

ちょっとビックリな大逆転劇で佐藤八段が勝利。

どうビックリかと言えば、佐藤八段の玉は終盤既に詰んでいた。数十手の詰め筋、それを羽生名人が見落として、そこからの大逆転劇が始まった。

無論、私ごときにその詰め筋がわかるはずもない。

大変興味深いのは、それを見落としたのが羽生名人であるということだ。

ここ二十年ほど、将棋界で総合的に誰が最もすごいか(あるいは強いか)と言えば、羽生善治名人で間違いないだろう。異論を差し挟む人も少ないはずだ。あまりに強すぎて「鬼畜メガネ」のニックネームすらある羽生名人であるが、こういう事も起こりうる。

これが果たして「単なるミス」なのかと考えた時に、それはどうだろう、と私は疑問に思う。

そして、ここに「人間が将棋を指すこと」の面白さがあるのではないだろうかとも思う。

昨今話題になっているコンピューター将棋。これは詰みまでを一直線に計算するソフトである。今回の詰み筋の見逃しなどという事は、コンピューター将棋ならばありえなかっただろう。

しかし、この見逃しをしたのは、ほかでもない羽生名人なのだ。

全ての将棋指しの頂点に長い間君臨し続けた、将棋に人生のすべてを捧げてきた、羽生名人なのである。

素人目線で考えられるその見落としの原因はいくつかある。

・そこまで難解な局面が続いていたために、シンプルに考えることが出来ずに見落とした。

・あるいはすでに気付いていたが、更に面白そうな展開を模索していたためにそちらに行かなかった。

実際のところはどうなのだかわからない。しかし、この対局者が羽生名人である以上、それが「単なるミスだった」とはにわかに信じがたいのである。

仮に「単なるミスだった」としよう。だとしても、その原因としては、間違いなく「ほかの様々な局面を想定していたためにそのミスが起きた」ということは外せないと思うのだ。

人間は、機械的かつ効率的に一つの結論だけを考えない。「余計なこと」をたくさん考える。

だからこそ良いのではないか、と私は思うのだ。そして有史以来人間の手によって発見されてきた様々なことは、ほとんど全てがこの「余計なこと」が発端になっているのではないだろうか。

とんでもないずば抜けた頭脳をもったその対局者たちの鎬の削りあいは、いつも私たちの心を躍らせる。

今年も名人戦、熱戦のようで。

羽生名人にも佐藤八段にも期待して、熱戦を望む。

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