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2016年3月 7日 (月)

無能だもの

自らの能力が低い、という事を自覚するのはあまり気分の良いものではない。

出来れば自分は何かしらの能力に秀でていてほしいという承認欲求は人間としては比較的まともな欲求であろうし、そうでないという自覚、つまり「あれ?オレってすげー低スペック?」という自覚は、出来るならば持たずに生きることが出来れば良かった。

しかし日々を暮らす上で、私のような低スペックの人間は成功よりも失敗を圧倒的に多く重ねてしまう。失敗を繰返しながら「うむ!認めたくないが、私は低スペックである! 間違いない!」という自覚に至る。

このような自覚は、私の場合で言えば高校に入学してすぐに勉強がさっぱりわからなくなったり、様々なアルバイトをするもその働いた先々で「使えないバイトくん認定」を受けたり、大学を留年しまくったりした辺りで「うーむ、認めたくはないが、どうやらオレは無能な上に低俗らしい」と気付かざるをえなかった。

気付いて良かった部分も少なくない。自分が無能であるという自覚を抱く事によって、仕事などを溜め込んだ場合にはそれを処理しきれない事は理解しているので、前倒し前倒しで仕事を片付けるようになった。自分に自信があれば「ギリギリまで放置しといてもオレならば何とかなる!」という思考回路で放置もするのだろうが、自らの低スペックゆえに何とかならない事を理解しているので仕事は極力溜め込まない。早めに片付ける。

ソクラテスの言う「無知の知」に似ていなくもない。

私には音楽的なセンスや技術など微塵も備わってはいないが、それでもこの音楽の世界でかろうじて生き残っているのは、そうした自らの無能を自覚しているからかも知れない。

こういう事情であるから、自らの無能さや低俗さを自覚する事は必ずしも「あきらめ」とイコールではない。無能な人間には無能な人間の戦い方がある。それに気付くか気付かないかは、私の中では非常に大きな問題なのである。

しかし人間というのは難儀なもので、常に様々な方便を使って自らを正当化しようとする。

私も無意識の内に無能であり低俗である自分を正当化するための理屈を脳内で構築していた。

私の場合は、主に親鸞とキリストという二人の宗教家の理屈を借用する所から始まった。

そう、「人間とはとても愚かな存在である」という理屈である。

ここで親鸞やキリストの思想に細かく言及することは避けるが、彼らの思想を一言でまとめると「人間は愚かだが、これでいいのだ」というバカボンのパパ的な所に落ち着く。私は無能な私を認める為に、どうやらこの理屈をかなり信じている部分がある。宗教への信仰はズボラであるがゆえにあまり無いのだが。

この事が私に困った事を一つ引き起こしている。

現在書いているエッセイの原稿だが、五編も書くとその内三編は、「人生はしょっぱく、人間は愚かであるから愛おしい」という結論に至っている。立て続けに書いている訳でなく、少々時間を空けながら書いているから余計なのかも知れない。とにかく、サゲの結論部分に非常に頻繁にこの「無能人間万歳\(^-^)/」が使われている。

というか私の書く文章には一つのパターンみたいなものがあり
・下ネタを交えたマクラ

・くだらない本編

・人生はしょっぱく、人間は愚かであるから愛おしい、というサゲ

ほとんどがこのパターンに収まっている。

それに、今日、気付いてしまった。

書きかけの原稿や書き上がった原稿を見たら、「結論、全部一緒じゃん」とorzした。

無能だもの。

仕方がない。

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