風の中の賢治
昨日は仕事が終わってから一人でとぼとぼと上野の国立博物館へ。
アニメーション映画『銀河鉄道の夜』が野外で上映されると言うので。
見終わってどうだったのかと言えば、それは文句なしに素晴らしかった。それはわかっていた。私はかれこれこの映画を20~30回ほどは見ていて、それほどにお気に入りで私にとって特別な映画であるから、それを野外で観て悪い筈が無いのである。
普段ならばこういう場面であれば缶ビールの何本かも買い込んで一人宴会の様相で観るものだが、昨日はそれもしていない。ペットボトルのウーロン茶を一本だけ買って、シラフで観た。シラフで観たかったのだ。
昨日の当ブログの記事にも書いたが、19:00に上映開始であるのにも関わらず私は17:00には国立博物館に到着しており、座席を確保したのは良いものの一人なのでそこから離れる事も出来ずに、ひたすらに二時間を座って過ごした。携帯でスクリーンの写真を撮ったりなどもしていたが、それにはすぐに飽きてしまって、やはりぼんやりと過ごした。
こういう時間の過ごし方は私の最も好きな時間の過ごし方である。特別にする事もなく、ひたすらに「待つ」というのは、私にとっては実に至福のひと時なのである。余談だが、大学時の私の卒業論文は「待つという行為について考える」というものと「現実の不確かさについて考える」というものであった。「待つ」という行為は実に面白い。
待っている間、作品『銀河鉄道の夜』について考えた。それから宮澤賢治について。
宮澤賢治という作家は、おそらく私が最も多大な影響を受けた作家だ。どんな作家かと言えば、私の個人的な印象としては「純然たるキチガイ。ゆえに天才。そして唯一無二」というものである。
賢治の世界観にはついていけない時が多々ある。この『銀河鉄道の夜』という作品に関してもそういう所はある。賢治の「石オタク・星オタク・宇宙オタク」みたいな部分が一切の遠慮無しに作品に注入されてしまい、何を言っているのだかわからない場面も少なくない。
でもそれで構わない。賢治の世界観はそれで良いのだ。石や星や宇宙について我々が専門的な知識を持たなくても良い。それはそういうものとして受け止める以外にない。
20年以上昔、中学生だった時に宮澤賢治の詩集『春と修羅』を初めて読んだ時の衝撃は忘れない。
~わたくしという現象は仮定された有機交流電灯の一つの青い照明です~
キャー!ナニコレ!意味がわからない!そしてとんでもなく美しい!タケシ少年はイチコロだった。今読んでも意味がよくわからない。有機交流電灯が何なのかよくわからないし、この詩にはあとで「因果交流電灯」も出てくるし、そもそもこれは詩ではなくて「心象スケッチ」なのだ、と。賢治の世界観はぶっ飛んでいる。理解しなくて良いのだ。あるがままに感じるしかない。
昨日も映画を観ながら「いやあ、良いね!相変わらず賢治の世界観はぶっ飛んでいるし、別役実の書いた淡々としながらも重苦しい脚本は観客を暗い宇宙へトリップさせるには充分だ!細野晴臣の音楽も素晴らしい!この作中のメインテーマになっている曲はひょっとすると細野晴臣の最高傑作なんじゃないか?ますむらひろしのキャラクターデザインも良いよね!この猫の擬人化っていうのはこの作品の一つの重要ポイントだよな!しかし最高な映画だ!素晴らしすぎる!うむうむ!」と一人でニヤニヤしていたのだが、後ろにいた若い女二人組が「何かさー、猫はカワイイんだけどさー、さっぱり意味がわかんなくない?これ面白いの?」なんて言っているのが聞こえてきたものだから、オジサンは振り返って小言の一つも言ってやりたくなりましたよ。
「あのねえ、意味がわかるものだけを良しとする態度はいかがなものかねえ。よく意味がわからないから何べん観ても面白いんだよ!あのリンゴは何を象徴しているのか、とか、何故作中の登場人物は猫ばかりなのに、後半に人間が三人だけ出てくるのかとか、この作品の中で描かれる死の意味は、とかそういう事を考えながら観ていたらめちゃんこ面白いの!この作品は!もうお前らは上野公園にいるホームレスに(以下略)」などとね。もちろん言いませんけどね。
いやほんと、確かに難解な映画ではあるのだ。全体的な空気もずっと重苦しいし。しかし、だからこそ面白い。観る度に発見がある。そして生と死について考えさせられる。哀しくて切なくて、そしてたまらなく美しい。
本日10月3日も上野の国立博物館で野外上映をやっているらしいので、観た事がない方には激しくオススメ。
ああ、全部仕事をほったらかして岩手に行きたくなってきたなあ。北上川と早池峰山を見ながら賢治の世界に浸るんですよ。あめゆじゅとてちてけんじゃ。
最後に大好きな賢治の詩を一つ紹介。これも最高だ。
眼にて云ふ 宮沢賢治
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。
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