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2015年7月16日 (木)

目的の為には手段を選ばない政治家がいても良いと思う

昨日の国会の不愉快な騒動について少し。

安保法案の採決に関するいざこざについて、だ。

与党の暴挙に対する立腹は一旦置いておく。奴らはこれぐらいの事はやる。それはわかっていた。わかっていながら選んだのは我々だ。

昨日も同じ事を書いたが、先頃の選挙で与党に票を入れなかったから私は与党を選んでいないという理屈は通用しない。私も自民党ならびに公明党に票を入れてはいないが、現在の与党を選んだのは自分達だという自覚はある。そこの所で無責任に他人に責任転嫁をしてはならない。

与党に対して「奴らはこれぐらいのえげつない事は平気でやるよ」という認識はあったので、昨日の採決に関しては想定内だったと思っている。あの安倍首相にかなり極端な所があるのも知っているが、そもそも自民党は一貫して親米路線、日米同盟の強調を推し進めてきた。今回の安保法案の採決に関しても「ちょっと極端過ぎるだろ」という思いはあるが、これまでの自民党の方針から大きくズレているとは思わない。個人的には全く良いとは思わないが。

私が非常に違和感を感じたのは、野党の態度、また国会前で反対デモを行っていた方々に対してである。

野党の人間達が国会場内にプラカードを持って反対だと訴える方法は何だか芝居じみて見えた。正直に言って「そんなにプラカード持ったり大声出したりしたって自民党は法案を通すよ。そんな事じゃ変わらないよ」という気持ちで見ていた。

国会前でデモを行っている人達に対しても違和感があった。デモが無意味だとは思わないが、ちょっと論点がズレていやしないか?と疑問に思ったのだ。

デモに参加した人々が掲げているプラカードの大半には「戦争反対(もしくはそれに類する)」という言葉があった。この反対の仕方はむしろ敵(与党)に言い訳の余地を与えてしまって敵をラクにしてしまうんじゃないか?と私は思ったのだ。

民衆が「戦争反対だ!」と言う。首相が「これは戦争に向かう為の法案ではない」と詭弁を弄する。「じゃあその根拠は!」と聞く。「まあ色々あってごにょごにょで」なんてお茶を濁す。

こんな図が何となく想像出来た。

だから今回の採決に対して異議を唱えるのであれば、私は「戦争反対」という広義過ぎる命題ではなく「明確な情報開示を」であるとか「違憲性、あるいは違法性についての明確な説明を」という所を民衆達も強くツッコむべきだったのではないだろうかと思うのだ。

まあ、今日となってしまった所では後の祭りであるが。

ここからが私の意見の本懐なのであるが、今回なぜここまで与党が強気に出られたかと考えた時に、そこには強固な「数の論理」があったからだと思う。議席の過半数を与党が保持している以上、多数決が原則の議会においては与党は圧倒的に強い。

では、叩くべきはここの部分、つまり「数の論理」を成立させないようなやり方を考えるべきではないか、と私は思った。

そう考えた時に、最も重要な部分を担うのは宗教団体である創価学会の信者達ではないか、という気がするのだ。

与党の一角を担っている公明党の支持母体が宗教団体の創価学会である事は暗黙の了解であり周知の事実である。この人々をどうにか出来ないか、というのが私の意見の一つだ。

創価学会の理念の中に「世界平和」や「人道主義」がある以上、昨今の自民党のやり方に相容れない部分、理念と矛盾する部分があるのは明白だ。

では、そこを更に突いて「このままでは自民党と協調する公明党を創価学会が支持する事は困難である」という論調に持っていけないだろうかというように考えてみた。

個人的な話になるが、私の親しい友人にも創価学会に所属する友人は何人かいる。これはたまたまなのかも知れないが、彼らは創価学会に対して熱心に活動しているにも関わらず、世間で言うような「選挙の際への公明党への投票の強要」や「機関誌の購読の勧誘」などは一切して来ない。私は私の立ち位置で自由に物事を考える事を許してくれるし、よって私の友人である方々をフィルターとして通して見た創価学会に対して私はまるで嫌悪感は無い。というよりもそもそも「人がどんな宗教を信仰しようが勝手でしょうが」という考えは根本にある。

よく宗教への信仰を「思考停止だ」という人間を見かけるが、無宗教である事の愉悦(これは日本の中には確実に存在する)を武器にやたらと宗教を叩くのは、それ以上の思考停止であると私は思う。

少々話がズレた。

「ここで一つ創価学会の方々がどーんと公明党に反旗を翻して与党が解体し自民党が数の論理を振りかざせなくなればチャンス!」という感じにふと思ったのだ。

もちろんこの私の意見には荒唐無稽な部分や非現実的な部分も多く含まれているだろう。

しかし、私が言いたいのは「本当に敵が嫌がる事をしようぜ」という事なのだ。

「自民党のやり方に反対だ!」と声を上げる事は声を上げない事よりは意味がある。それはわかる。けれど声を上げる自分に酔ってしまったり、声を上げる事で話が完結してしまっては意味が薄い、と私は思う。敵をラクにさせちゃいかんでしょ。

もっと他にも敵の嫌がるやり方があるとは思う。もっと知恵を絞って良いはずだ。

野党の中で「ウチの党は創価学会と癒着して公明党を中から破壊、形骸化させ、与党の解体を目論見ます」なんて党が出て来たら多分投票してしまうと思う。

きっと他にもやり方は色々ある。

多分、思考停止こそが奴らの思うツボなのだろう。

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