本日は大森でアヤちゃんと!
本日は大森の「Bar Veille」で歌のAya Suekiさんとデュエットです。19:00から。
大人な雰囲気のバーなので少しだけオシャレしつつ出掛けています。つっても背広着てるだけですけど。男はラクで良いよね。とりあえず背広着とけば何とかちゃんとしてる風になっちゃうんだから。
今日も良い曲満載でお待ちしておりますのでご都合宜しい方は是非!
さて、以下は全く関係無い話。
昨晩の深夜、家で晩酌をしながらテレビを見ていた。オウム真理教の一連の事件に関するドキュメンタリー番組。
思った事が二つ。
一つは無差別殺人の異常性。
無差別殺人には目的が薄い。
憎い人間がいる、或いは邪魔な人間がいる→だから殺す
というのは許しは出来ないけれどもロジックとしてはわかる。自分にとって不必要な人間を排除したいという「目的」、そしてその為の殺人という「手段」。
それに対して無差別殺人というのはその「目的」の部分が薄い。「手段」としての殺人の部分に重きがある。恨みがあろうとなかろうと、相手が邪魔だろうとそうじゃなかろうと、そういう事はあまり関係ない。ただひたすらに「殺す」事のみが重要なのだ。
そう考えた時に、目的を持つ殺人者と目的を持たない無差別殺人者、より狂っていてより異常なのは後者だという事になる。
オウム真理教によるサリン事件は、無差別殺人である。許しがたい行為であると同時に、「これはものすごく異常な行為だぞ」と私は思ったのである。
もう一つ考えた事。
その異常な狂気は、彼岸の出来事ではないのだという事。
つまり、私の中にも誰の中にも、その異常な狂気の原材料となるものはある、という話。
私を含めたほとんどの人間は、煩悩や汚い欲望が自らの中にある事を知りつつ、そいつらを何とか飼い馴らしながら「マトモ」な社会生活を送っている。
オウムの連中の凶行を見ながら、「これは対岸の火事じゃねえんだよなあ」という気持ちが湧いた。
私もあなたも、一つ手順を間違えば「狂って」いく可能性を持っている。
それを知恵と理性で何とかするんだよ、と思う。
「あいつら狂ってんなー、コワイコワイ」じゃないのだ。「人間ってここまで狂う事が出来るんだなー、って事は我々も一歩間違うとこうならないとは言い切れない、気をつけないとなー、コワイコワイ」が私の感想だ。
こういう思考の習慣は、恐らく私が親鸞やキリストの思想に影響を受けているからなんじゃないかとも思う。
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