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数年前まで日本のプロ野球チーム広島東洋カープには、黒田博樹というピッチャーがいた。
現在はメジャーリーグベースボールチームであるニューヨークヤンキースにてエース級の活躍を見せる素晴らしいピッチャーである。
今回のメルマガは彼の存在に着想を得た短編恋愛小説をお送りしたい。
要するに今はもはや世界屈指の投手となってしまった黒田博樹投手に、いつかもう一度広島カープに帰ってきてもらいたい、というそれだけの意味の小説である。
小説をより楽しんで頂く為に、先に黒田博樹投手の
wikipediaを御参照頂ければ幸いである。
もちろん小説に関しては完全なるフィクションであり、登場する人物等は全て架空の存在である。
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クリスマスで着飾った街が少しずつ落ち着きを取り戻しながら、また別の頭で新しい年がやってくるのを心待ちにしていささか浮足立っているように見える。こんな年の瀬に、ぼくは毎年博子の事を思い出していた。
「あたしね、東京に行く事にしたの」
雪の降る旭川の街の片隅で、五年前に博子はぼくにそう言った。しんと静まり返った街の中で、博子の言葉だけが妙にぼくの耳に響いた。
「そっか。良かったじゃん。頑張れよ」
返事に困ったぼくの口から出た言葉は、何とも凡庸でぶっきらぼうなものだった。ぼくはその言葉を頭の中で反芻しながら「何が良かったじゃんだよ、全然良かねえよ」と思いながら苦笑した。
けれどぼくはそんなに驚いていた訳じゃなかった。遅かれ早かれそうなるんじゃないか、そう予感していた。
博子はこの北海道の中ではちょっと名の知れた役者だった。北海道限定の地方CMなどではあるけれどよくテレビに出ていたし、バイトと稽古ばっかりでというようないわゆる「売れない劇団員」という所から抜け出したという感触はすぐ傍で見ているぼくにも伝わって来ていた。一緒に街を歩いている時に博子がファンからサインや握手を求められる場面に遭遇した事もある。博子はいつもそれに笑顔で快く応え、横にいるぼくを指して「彼氏ですか?」なんて聞かれた時には「ええ。高校生の頃からの。腐れ縁なんです」と否定もせずに清々しく答えていた。ぼくは気恥ずかしい一方で、何処か自分を誇らしく感じてさえいた。
「東京に出て来ないか?」という話はこれまでにもあった。博子はその度に複雑な表情を浮かべながら、「東京に、っていうお話があったんだけれど、やめとこうと思うの」とぼくに打ち明けた。ぼくは「行っても良いと思うよ。人の多い所で博子の可能性を試すのは悪い事じゃないと思う」と答えていたが、博子は決まって「ううん、やっぱり私を育ててくれたこの街に愛着はあるし、それに鯉太郎くんと離れて暮らすのって、正直想像がつかないの」と言った。
それがぼくに気を遣っての言葉なのか、それとも言葉通りの他意の無いものなのかはわからなかったけれど、ぼくは「わかった。博子の好きにすると良いよ」と言って笑った。
確かに博子がぼくの元から、そしてこの街から離れていく事を想像するとぼくの胸には締め付けられるような痛みが走った。博子が欠けてしまったこの街はまるでキャッチャーがいなくなってしまった野球チームのように不完全だ、そんな事を思っていた。実際に博子がいなくなってしまった後に、ぼくのそんな悪い想像とは無関係に街は粛々と日常を営んだが、ぼくにはやはりこの街が何かしら不完全なものになってしまったように思えた。
そんなやり取りが幾度もあった後に博子が口にした「東京へ行く」という言葉は、やはり相当の覚悟の詰まったもなのだとぼくにはすぐにわかった。少なくとも、物見遊山で東京に行ってダメだったらダメだったで故郷に帰って来れば良いというような軽薄な覚悟で発せられた言葉ではなかった。だからこそぼくには「話が違うじゃないか」なんて言い掛かりをつけてそれを阻止する術はとてもじゃないが無かった。博子の確固たる意志に支えられたその顔を見ると、「良かったじゃん、頑張れよ」なんていう少々裏腹な言葉を吐き出すのが精一杯だった。雪の降る街の中で、二人の吐く白い息が煙草の煙のように空に舞った。
「やっぱり、自分がどこまで出来るんだろうって、ずっと思ってたの」
博子がそう言った。何て美しい顔なんだろうとぼくは博子に見惚れてしまった。ついうっかりと。
その前の年に、博子と同じ役者仲間の新井貴子という女が同じように「東京に出て来ないか」という誘いを受けて東京に行った。その時に貴子は仲間の前で「この街を出ていくのは辛いの!この街が好きだから!」と大粒の涙を流しているのをぼくは見たが、何だか白けた気持ちでそれを見ていた。そしてそれをあまり美しいとは思えなかった。出て行く人間が去って行く場所への愛着を語るなんておかしな話だと思ったし、そうやって涙を見せてしまう事がぼくは個人的に好きになれなかった。
だから、ぼくが博子の恋人だったという身贔屓を抜きにしても、確かな決意を持って「東京に行く」と言った彼女の顔は美しかった。その事で一言たりともぼくに謝罪の言葉など言わないでほしいと思っていたが、そんなのは杞憂で、博子は決してぼくに「ごめんね」なんて言わなかった。
「頑張って…くるね」
博子ははっきりとそう言った。ぼくはそれを聞いて一度だけ深く頷いた。
顔を上げると、博子の唇がぼくの唇に触れた。
多分それはお別れのキスだった。
暖かく、そしてとても切ないキスだった。
博子がこの街を出てからしばらくはぼくは意識して彼女の事を思い出さないようにしていた。けれど時折新聞のテレビ欄に載っているテレビドラマのキャスト欄に「黒田博子」という彼女の名前を確認する事は度々あったから、思い出さずにいるというのが難しい話だった。
彼女がこの街を出てから初めてぼくがブラウン管越しに彼女の姿を観た時の事だ。元々美しかった彼女の顔には独特の凛々しさが加わり、ドラマの中では主役ではなかったのだけれど、まさに主役を「食う」ほどの存在感を放っていた。ぼくは今でもあの時の主演女優の顔はまるで思い出せないが、博子の真っ直ぐな眼差しは即座に思い出せる。それぐらい観る人の心に残るような演技を、確かな芸を彼女は研鑽していた。
博子が全国的な人気を獲得するのにはそんなに時間はかからなかった。「ずば抜けた存在感と安定感」、「若手きっての演技派女優」。メディアはこぞって彼女を絶賛し、黒田博子の名前はもはや「知る人ぞ知る」ようなものではなくて、「誰もが知る」ものになっていた。テレビを点ければ彼女の出演するコマーシャルを観ない日はなかったし、わかりやすく彼女はスターダムの階段を昇っていった。
どの世界でも共通するような話なのだとは思うが、頂点にい続ける人間達は往々にして努力の手を緩めない。それは博子も例外ではなかった。北海道にいる頃には、合わない役どころになると普段の半分も力を出せないようなムラっ気があったのだが、そういった好不調の波も無くなった。恐らく自分なりに様々な反省と改善を重ねていったのだろう。彼女は元々辛抱強い努力を厭わない人間だったが、その地道な努力が見事に報われていた。更に言えば、彼女は何よりもタフだった。一つや二つの失敗ではびくともしない強い心を持っていたし、肉体的にも強かった。野球で言えばさしずめいつでも完投出来て決してローテーションを崩さないピッチャーといった所か。もしぼくが誰かとチームを組んで一つの作品を作り上げるならば、博子のような存在は本当に助かると思う。そして、信頼というものはこのようにして勝ち取るべきものなのだとぼくは思う。
博子が東京で成功しているのをメディア越しに見ていて、ぼくは嬉しくない訳はなかった。その成功には「幸運を掴んだ」という要因もあるが、幸運のみで成功した人間は往々にしてすぐにその世界から消えて行く。自分の立ち位置に見合った芸が無いからだ。博子はそうではなかった。日々の研鑽と努力に幸運が付随した格好だ。揺るぎ無かった。
ただ、その一方でぼくは決定的な寂しさを抱える事になった。それは博子が既にぼくの手の届かない遠い所に行ってしまったという寂寥だ。北海道と東京という二つの街の実際的な距離以上に、もっと形而上学的な距離が、ぼくと博子を隔ててしまった。彼女は文字通り「遠い世界」に行ってしまったのだと思った。
博子が東京に出てから二年目の事だ。昼下がりに特に目的もなくテレビを点けていたら、ワイドショーが博子の恋愛沙汰を取り上げていた。映画で共演した中堅どころの俳優と深夜に二人で食事に行った所を写真に撮られたらしく、ワイドショーは「実力派女優の初ロマンス」などと面白おかしく囃し立てていた。芸能人の色恋沙汰なんて全く興味は無いが、それとこれとは話は別だ。ぼくは思い出すのも恥ずかしいぐらいに食い入るようにテレビ画面に見入ってしまった。博子の一挙手一投足に何らかの情報は無いだろうか、そしてこの報道は出来るならば嘘であってほしい、そう思いながら画面を見つめた。
下世話な印象の芸能レポーターが博子にインタビューを試みるシーンが映っていた。「黒田さん!黒田さん!俳優の○○さんとはお付き合いされてるんですか!?どうなんですか!?」と。
博子はそれに対しては何も答えなかった。ぼくは否定の言葉を待っていた。
それは間違いなく「嫉妬」という、とても苦しい感情ゆえだ。
はっきりとわかった。ぼくはまだ、博子の事が忘れられずにいる。
それが随分とみっともない事だとは自分でもわかっていた。もう博子はぼくの手の届く所にはいない。博子は画面の「あちら側」の人間で、ぼくは「こちら側」の人間だ。「アイドル」なんて言葉を考え出した人間はとても皮肉が利いていて良い。「偶像」か。ぼくの脳裏にいる博子、それは実像ではなく虚像なのだろうか。ぼくにはわからない。
雪の降る旭川の街で、ぼくは一人佇んでいた。もう今年も終わるんだ。そんな事を考えながら。
手に持ったホットコーヒーのぬくもりがありがたかった。冬の旭川の寒さは日本でも随一だ。頬を刺す寒気がぴりぴりと沁みた。
雑踏の音を聴いた。街のあちらこちらから無機質な音楽が流れ、そして人々の嬌声が聞こえた。
そんな音が幾重にも折り重なる中で、ぼくはぼくの背後に、呟くような歌声を聴いた。
「カープ、カープ、カープ広島、広島ーカープー」
空耳を疑った。そんな声はもう聴く事はないのかも知れない、ぼくはそう思っていたからだ。でも、その後も声は続いた。
「空をー泳ーげーとー、天もまた胸を開くー」
ゆっくりとした歌声は、次第にぼくに近付いて来た。
「今日のーこーのー時をー、確かーにたたーかーいー」
ぼくはそれに合わせて一緒に呟いた
「遥かーに高くー、遥かーに高くー、栄光のー旗をーたーてーよー」
振り向いた。確かに博子がそこにいた。
博子はぼくと目が合うと、恥ずかしそうに少し俯いて視線を逸らした。
「カープ、カープ、カープ広島、広島ーカープ」
二人で一緒に呟いた。
「ただいま」
博子がそう言った。
「おかえり」
ぼくはそう言うのが精一杯だった。本当に、現実と虚構の区別がつかなかった。
「広島…広島鯉太郎くん」
博子がぼくの名前を呼んだ。
「黒田…黒田博子さん」
ぼくもそれに答えた。おかしくなってしまって、ぼくたちは二人でくすくすと笑い合った。やはり現実だ。確かに博子は、そこにいる。
「こんな事を言うのはね、すごく自分勝手だってわかってるんだけど」
博子が口を開いた。ぼくは黙って頷いた。
「あと少し、あと少しだけ待っていてくれたら、嬉しいの」
何を言っているのかがよくわからなくて、ぼくは博子に聞き返した。
「どういう事?」
博子はぼくの目を真っ直ぐに見た。この街を出る時にぼくを見たのと同じように、それはとても美しい眼差しだった。
「あたし、もう少ししたらこっちに帰ってくる。」
ぼくは驚いて「仕事は?」と訊いた。
「仕事は続ける。そりゃあ東京でやってる頃に比べたら仕事は減るとは思うけれど、でもこっちでも何とかなると思うの」
そりゃあ何とかなるだろう。これだけ出世したのだから。
「鯉太郎くんの元に、帰って来ても、良い?」
ぼくは一瞬固まってしまった。その混乱を博子に気付かれるのが嫌で、平静を装って静かに一度だけ頷いた。
「わかった。待ってる。」
ぼくは博子を待っている。
それはいつになるかは今はまだわからない。
ただ、ぼくは、待っている。
博子がすっと手を差し出した。
ぼくはその手を握った。
握り合った二人の手の上に雪が落ちて、そして溶けた。
(了)
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