私が普段定期的に行っている一人呑みには幾つかのバリエーションがあるのだが、その中でも比較的ユニークなのは「台風呑み」と「京成呑み」である。
台風呑みとはまさに文字通り。台風の日にカッパと長靴などのフル装備で外へ出て行って、公園や河原などで缶ビール乃至缶チューハイを呑むという大変に風流な遊びである。横殴りの激しい雨に打たれながら「良いぞー!もっとやれー!うほほーい!」と叫びながら酒を呑むのは実に楽しい。台風が通り過ぎたらお開きかと思いきや、嵐の後には鳥や虫の囀りが聴こえてくるので、それをつまみにもう一杯呑る。若干命の危険に晒されながら呑む酒のまずい筈がない。これもオススメである。
さて、もう一つの「京成呑み」について、ここの所各方面から「何なのそれバカなの?」といった声から、「単にテツ(鉄道オタクの意)なだけなんじゃねえの?」といった声まで、実に様々の疑問の声を頂くようになった。様々な意見を総合すると、共通しているのは「意味がわからない」といったものである。
確かにそれは無意味かつ不毛な行為に映るのかもしれない。勿論そのように見られる事はある意味では仕方がないし、私もそこへ来て「無意味な事にこそ意味があるのだよ」などという禅問答的なフリをした詭弁を弄するつもりもない。
しかし、この「京成呑み」という情趣溢れる酒の呑み方、おそらくこの遊びを発明したのは私が最初だとは思うのだが、これに関しては当然一家言持っている訳である。何せ私は「京成呑み」の産みの親であるのだから。本日は皆様にこの遊びの愉悦を少しでも知って頂きたく、やらなくてはいけない仕事が山積みになっている所を放置して(もしくはその山積みになっている仕事を見ない事にして)こうして筆を執っている次第である。是非皆様もその深淵なる情趣の片鱗に触れて頂きたい。
「京成呑み」の悦びの大部分は、思索の悦びである。上質な映画というものが、その上映時間の2時間余りの時間にのみならず、観終わった後にも「あそこで言いたかったのはこういう事なんじゃないか」や「こういう感情に包まれた時にはなるほど人間というのはあのような表情を見せるのだな」などといった具合に様々な思索を我らにもたらすのはよく知られた話である。これは小説などにも当てはまる話だ。私たちは単なる暇つぶしの為だけに、単なる娯楽として映画や小説或いは演劇や音楽に触れるばかりではない。そのような「思索の悦び」を堪能したいという欲求は常にある。大雑把な言い方になるが、「文化」というものはそのようにして発展を遂げて来たのだ。
「京成呑み」の産みの親であるこの私が規定する「京成呑み公式ガイドブック」の冒頭には、「京成呑みとは、京成線がすぐ近くに見える空き地や駐車場など、他人に決して迷惑のかからないスペースにおいて缶ビール乃至缶チューハイを片手に、眼前を走り去っていく京成線を眺めつつ酒を呑む遊びの事である」と記してある。但し書きとして「誰かに訝しげな目で見られたり、公安のお犬様(通称ポリス)に注意された場合などには速やかにその場所を立ち去り、新たな京成呑みスポットを発見する事」とある。なるべく人に迷惑をかけないように気をつける、という「大人マインド」は常に傍らに携帯しておきたい所である。
そう言えば説明が遅れたが、京成線とはそもそも電車である。京成とは東京の「京」と千葉県成田の「成」を繋ぎ合わせた造語であり、東京の上野から成田空港までを結ぶ電車がそれである。言うまでもない事だが、私が世界で最も愛してやまない電車が京成線だ。
私が京成呑みのスポットに選ぶ事が多いのは、私の自宅近くの京成小岩駅近辺が多い。京成高砂駅、京成江戸川駅、京成国府台駅などの駅の線路沿いのスポットである。
時刻は夕方以降、やはり空が暗くなってからの方が趣深い。というよりも明るい内から酒は(なるべく)呑まないという自分ルールもある為、必然的に夕方以降の時間になる事が多い。
この時間の京成線というのは、上りの電車と下りの電車で随分と様子が違うのがすぐに見てわかる。圧倒的に下り電車(東京から千葉方面に向かう電車)の方が乗客が多く、上り電車(千葉方面から東京に向かう電車)の方が少ない。
こういった部分から思索の悦びは始まっていく。
下り電車に目を向けてみよう。乗っている客の大半は昼に東京で働き、千葉にある家に帰る、というシチュエーションの客である。逆のパターン(千葉で働き東京に帰る)に比べてこちらの方が圧倒的に多いのは、家賃や地価の問題と大きく関係している。やはり千葉の方が住宅に関わる費用は全体的に安く済むケースが多い。仕事としての給料は、東京の方が高い事も多い。いわゆる「ドーナツ化現象」である。
その際に、彼らは職場近くの東京に狭い家を借りて住むよりは、少々郊外になっても構わないから一戸建てなどの家を欲した人々である、という想像がつく。
ここで考える。
彼らが欲したのは単なる「一戸建ての家」ではないのだ。それはあくまでも現実的な「物質」であり、欲したもの、また願ったものはその背後にある「家庭」という共同幻想なのだ、と。
家族とは何なのだろう。家庭とは何なのだろう、という思索が私の中で始まる。
眼前を走り去っていく京成線に目を向ける。車窓の中に、窓にもたれかかっている疲れたサラリーマンを見る。一日の疲労が顔色に窺えるものの、その表情にはどこか安堵した色もある。それはおそらく自らが欲した「家庭」に帰っていくからだ。そこは自らの安らぎの場所であり、心を許せる場所であるのだ。
それを眺めながら缶ビールをちびりと呑る。いつも以上にまろやかな苦みが私の口腔を潤す。
上り電車に目を向けると、閑散とした車内が見える。私もこれまでに幾度となく列車の旅をした事があるが、夕方過ぎの閑散とした電車内という雰囲気ほどに旅情を掻き立てるものはない。寂しさと侘しさ。それを暖かく包み込む京成線という一種の「母性」。
上り電車には稀に化粧の濃い派手な格好の若い女なども見受けられる。上野の歓楽街のホステスかも知れない。そんな事を考える。
元々は千葉のヤンキー少女だったのかも知れない。若い頃に付き合った男との間に子供が出来て母親になったは良いものの、父親になるべきその男は放蕩し遊び歩いて家には金を入れない。いつの間にか男は家には帰らなくなり、母一人、子一人の生活が始まった。経済的にも困窮してきた。しかし自分は腕の中に抱えたこの子を育てると決めたのだ。女は、夜の街で働くことを決意した。
そんなストーリーを考えながら缶チューハイをぐびり。いつもより少し辛く感じるのは、そのチューハイが辛口だからではない。
冒頭に、「京成呑み」とは映画や小説などと同等に一つの文化なのだという話を書いたが、京成呑みの最大の滋味は、こうした無限に繰り広げられる様々な物語の享受なのである。
生きるという事はものすごくかっこ悪い事だ。そしてみっともない事だ。
失敗を繰り返し、誤解を繰り返す。
人を傷つけ、傷つけられる。
赦し、赦されていく。
そうして生きる人間が、どうしようもなく愛おしい。かっこ悪くて、みっともない人間ほど、優しくて、切ない。
そんな感覚を味わうのがこの「京成呑み」である。
女の元にはいつか父親から手紙が届くかもしれない。赦されない、赦す事は出来ない事は知っていて、なおも再び邂逅する「家族」の絵。
せづねえなあ。
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