色々と今日思った事
スティービー・ワンダーやレイ・チャールズがグレイトな音楽家である事に異論を唱える人は少ないだろう。私も多大な影響を受け、そして尊敬してやまない音楽家の内の二人だ。
彼らがなぜに素晴らしく、そしてグレイトであるかと言えば、理由は極めて単純で、彼らがそういった評価に値する音楽を創り出しそして奏でて来たからである。
たまたまであるが彼ら二人の共通点に「盲目である」という事が挙げられるが、仮に彼らが盲目でなかったとしても彼らに対する評価は揺るがない。
ローランド・カークだってジョージ・シアリングだって同じだ。「盲目なのにすごい」から「すごい」訳ではない。彼らは皆盲目であろうがなかろうが「すごい」。めちゃんこすごい。
広島の音楽家が、自身の作品として世に出ていたものの殆どが「自分一人で創ったものではない」という事を告白して世間で問題になっているらしい。落胆している人も多いらしく、曰く「裏切られた」とか「失望した」とか。
は?と言いたくなってしまう。
その音楽家の作品を私は聴いていないので何とも言えないのだが、その作品に感動した事のある聴衆がいたのだとすれば、別に作者が違おうが何だろうがその「感動」は色褪せる訳ではないだろうと思う。
あまつさえその音楽家は「耳の聴こえない音楽家」というのが一つの売りだったらしいのだが、実は耳が聴こえていたとかいないとか。
こういった「嘘をつく事」が「みっともない事」だというのは私にも実感としてわかるが、誰かが死んでしまうほどの被害がおきた訳でもなければ「別にいーんじゃね?」ぐらいの認識である。
私は多分こういった事で嘘をつかないとは思うが、それは私が正直者で良い人間だから嘘をつかない訳ではない。バレた時にあれこれと面倒臭いから嘘をつかないだけだ。要するに小心者だからだ。
なので昨日辺りから世間を騒がせているこの問題については「あーあ。景気良くデカイ風呂敷広げた所までは良かったのにねー。バレちゃったねー。バカだねー」という認識である。
残念でした。
さて、以下はちょっと個人的な事。
世界には病が溢れている。毎日どこかで誰かが死んでいる。その全てに関心を持っている時間は我々には無い。病や、そして死に対して、ある意味では我々は大部分において不感症になっている。
しかし個人的な関係性の中での事となれば話は違う。昨年暮れに京都時代に大変に世話になった名ドラマー村上健三郎氏が亡くなった。
亡くなる数週間前に知人より彼が病床にあり恐らくもう永くはないという話を聞いた時には私も身が千切れそうだった。亡くなった時にはたまらない喪失感に包まれた。
親しい人間や好きな人間が病に侵されているという事を聞いた時には、やはりどうしようもなくやるせない気持ちになる。
また同時に自らの無力を痛感する。
医学的に何も力になれる事は無い。何かをしてやりたくても何もしてやれない。
だから多分出来る事は一つで、「あなたには生きる価値が充分にあるし、あなたが死んだら俺はすげえ悲しい。だから頑張ってくれ」と伝える事ぐらいなのだろう。
頑張れ。
超頑張れ。
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