昨日の深夜、仕事から帰ってきて、家で缶チューハイなんぞを呑みながらテレビを観ていた。
投資家だか何だかの話をやっていて、別段強い興味はなかったのだがぼんやりとそれを観ていた。
横で一緒に観ていたかみさんが、「何だか農業みたいだね、この人達。種を蒔いてそれをたくさんに増やしてっていうのが」と言うので、「お前バカを言っちゃいけない、この連中と農業に従事している人達が一緒なもんか」と反論した。
確かに方法論だけ見ればそのロジックは似ているのかも知れないが、投資家だか何だかの連中は土や草の匂いと共にはいないし、何よりリアルな生命を取り扱ってはいない。その点で大きく異なる、何が一緒なもんかというのが私の感想だ。
そりゃそうか、という事で取り立てて夫婦喧嘩にもならずにいたのだが、引き続きそれを観ながら気付いた事がある。
投資だか為替だかで大成功した、要するに大金を持っている人達、これが全く「カッコ良く」思えないのだ。
何百億円だか何だかの話をしているのだが、まるで私の心が動かされない。「ふーん、そうなんだ」と思うだけで、全然憧れの感情が湧いて来ない。これはひがみや妬みからではない。恐らく彼等がリアルな生命と共にいないからだ。
帳面上の話でいくら増えたとか減ったとか、確かに世の中にはそういう仕事をする人も必要で、そういう人達のお陰で我々が生かされているという部分も十分にあろうが、とにかく私が個人的に「カッコ良い!」とは思えないのだ。例えば子供の頃にプロ野球が「カッコ良い!」と思ったように。
そう考えると、やはり私は生命を扱っている人達の仕事ぶりに「カッコ良い!」の感情を抱く事が多い。それは例えばアフリカにいる医師だったり、日々海に出る漁師だったり、土にまみれている農家だったり。
先日聞いたニュース。北海道の大雪の中で父娘が遭難したそうだ。父親は娘を身体に抱き、自分の身体でもって娘を暖め寒さを凌ぎ、そして自らは逝ったらしい。この父親が漁師だったそうだ。
もちろん全ての漁師を賛美するのもおかしな話ではあるのだが、この漁師の父親は日頃から他の命(海産物の)を奪う事をしていたせいで、感覚的に「命の重み」を知っていたのではないだろうかと思った。自らの手の中にある娘の尊い「命」、それを何としても守ろうとしたのではないだろうか。
漁師の父親が亡くなられてしまったのは非常に残念ではあるが、実に様々な事を考えさせられるニュースであったし、何より私は「やっぱ漁師ってカッコ良いなあ」と思ってしまった。
昨今、自分の子供を殺すような親が数多いるらしいが、問題の根本にあるのは「生命に対するリアリティの無さ」のような気がしている。
命というのは非常に美しい反面、非常にグロテスクでもある。
その感覚を、私ももう一度確認したい。
そして様々な生命の犠牲の上で我々は生きているのだ、と。
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