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2012年10月19日 (金)

また違う場所へ

私は音楽の生演奏を聴きに(観に)行くのが好きだ。

そこには当然ながら「勉強」という意味が含まれもしてしまうが、やはり第一には自分が楽しみたいというのがある。2000円払って映画を観に行くのと一緒だ。金を払って楽しみたい、上等な暇潰しをしたいというのが根幹にある。それは結構大事な問題で、私が演者の側に回った時には同様の事を逆の立場から考える。

つまり映画を観終わった後に「あー面白かった」と呟きながら映画館を後にするような、私の演奏を聴きに来てくれた方々にそんな感覚を抱いてもらえればそんな幸せな事は無いと思っているのだ。

だからこそ自分が誰かしらの演奏を聴きに行った後に「いやー楽しかったなー、最高だったなー、明日からまた頑張ろー」なんて感じになると、「あ、コレって良いライブだったんだ」と感じる。そんなライブが私は大好きだ。今年に入ってから数度共演させて頂いているトランペット兼ボーカリストのMitch氏のライブなどはまさにそのようなライブの最たるもので、氏のステージを観ると何とも幸せな気持ちになれる。言葉にすると凡庸だが、これは「スゴイ」事なのだ。私は度々氏のライブに観客としても足を運ぶが、いつもえもいわれぬほどに幸福な感覚を享受出来る。本当に心底から「素晴らしいライブ」をする人だ、と私は氏を尊敬している。

このような爽快感を求める一方で、私はどこかで私が崩壊していくような感覚というものをライブに求めている。

自己否定、というと言葉がネガティブになり過ぎてしまうが、自らの根幹を揺るがされ解体されるような体験、そんな体験を私はこれまでに何度か音楽のライブにて味わっている。

そこには、必ずしもわかりやすい爽快感が伴うばかりではない。強烈な違和感を身体の中に受け入れていくと、奇妙な感覚と共に自己が解体されていく。これまでに私がそういった経験をしたのは、一回はピアニストであるRandy Weston氏の演奏を間近にて観た時である。

一言で言ってしまえば、それは私の理解の範疇を越えていた。目の前で行われている音楽儀式は全て私のボキャブラリーの中には無いものであったし、またピアノからは聴いた事がない程に荘厳で美しい音が奏でられていた。何だこれは!という感覚と共に圧倒され続けた。そしてRandy Westonの音楽が持つ圧倒的なパワーは、私を徐々に解体したのだ。

私にも理想とする音の形がある。Randy Westonの音楽を間近に体験するその直前までも「これこそが美しい理想の音なのだ」という感覚があった。それは記憶の集積である。これまでの「音による感動体験」を総合していった結果、ぼんやりとではあるが「このような音が良い」という価値判断が形成されていった。そこに、まるで異質な美しさが介入した。比類なきほどに圧倒的なパワーを湛えて。

その結果として、私の価値基準は容易く崩壊した。奇妙な違和感はやがて明確な感動へと変わった。Randy Westonの音楽を体験するという事は、畢竟私にとっては自己の再構築をするという事なのだ。

先程映画の例えを出したが、以前熱烈な映画ファンでもある梶川氏(小岩のライブカフェ「Back in time」のオーナー)と呑みながら映画の話をしている時に「世の中には上映時間の二時間だけではなくて一生に渡って楽しめる映画なんてのもあるんだぜ」という事を言われた事がある。それは数々の疑問符を観客に付与し、観客に「考える事」を迫るような映画である、と。

それを聞いた時に私はRandy Westonの音楽体験を即座に思い出した。私は数年前に観たRandy Westonの音楽について、未だにアレコレと思索を巡らし、その体験を楽しんでさえいる。私は解体され組み換えられ、新たな価値判断基準を模索する事を迫られたのだ。

初めてその音楽に触れたのは2005年だった。今から7年前だ。まだ私は学生で、当然の事ながら音楽を生業にはしていなかった。それから暫くして私の生活も変わっていって、図らずもそのピアノというものを中心に生活が回る事となった。そうやって生活が変化していく中で、Randy Westonの音楽は常に私の頭の中心にあった。言い換えれば、Randy Westonの音楽によって私は今の立ち位置に連れて来られたのかも知れない。彼の音色や彼のリズムを追い求めて、彼の音楽に魅了され続けて、そうして私は今ここにいる。

先日の10月13日と14日、京都は上賀茂神社でRandy Westonと、氏の盟友でもあるテナーサックス奏者Billy Harperによるデュオのコンサートが行われた。当然ながら私も京都へ向かった。そして、その音楽を眼前に観て来た。

私が彼等のファンであるという贔屓目を抜きにしても、演奏は文句なしに素晴らしかった。ベテランミュージシャンに有りがちな基礎テクニックの衰えなど微塵も無いどころか、明らかにRandy Westonは以前2008年に観た時よりもピアノが「上手く」なっていた。御歳86という事を考えればこれだけでも充分に凄い。そして当然ながら年齢を重ねる事による音楽性の深化も進んでいた。

前回の2008年にベーシストのAlex Blakeと演奏した時に比べると、今回はRandy自身がより音楽を楽しんでいるようにも見えた。遊んでいる、というか。Alexとのデュオがガチンコインファイトのドツき合いのボクシングだとすれば、今回は丁々発止の熟練の、そして白熱の二人芝居といった具合。例えは極端かもしれないが私にはそう見えた。

それはどちらも本当に素晴らしく、名機ベーゼンドルファーから発せられる一音一音に、今回も再び私は解体されていくような感覚を味わった。実に素晴らしい演奏だった。このレベルの演奏が7000円で聴けるというのは、信じ難い程にリーズナブルだ。主催者の「LUSH LIFE」マスターの心意気と、その心意気に賛同したボランティアスタッフあってのものだが、ここを余り賞賛し過ぎるのは止めておく。私もそのボランティアスタッフの一味だからだ。手前味噌になり過ぎるのは良くない。いや、実際にホントにスゴイ事なんだけれどゴニョゴニョ…

Randy WestonとBilly Harperの素晴らしい演奏を目の前にして、そこで繰り広げられる奇跡のような音楽模様に身を浸しながら、私は別の事をも考えていた。

「おい、ホントにRandy Westonがオレの目の前にいるぜ?」と。

Randyが私に与えた影響は、音楽的な影響に留まらない。私は知らぬ間に音楽を、ピアノを生業にするようになっていた。それは目の前でピアノを弾いている2メートルの巨人、Randy Westonの影響だ。またRandyと同じく「アフリカ」を奏でるピアニスト、Abdullah Ibrahimの影響だ。そして、死んだ師匠の市川修の影響だ。彼らの強烈な魂に圧倒されて、解体され再構築させられて、そして一歩でも彼らに近付きたくて、そんな事を考えていたら知らぬ間に今の居場所にいた。要するに彼らに人生ごと動かされてしまったのだ。良かったのか悪かったのかはわからないが、そんな風になってしまった事に私は満足しているので、多分良かったのだ。

目の前にいる男は、オレの人生を変えてしまった男だ。そんな事を考えていたら、胸が熱くなった。

コンサートを終えた翌日の15日、某所で打ち上げがあり、私は少しだけRandyと話す機会に恵まれた。

死ぬほど緊張しながら、私は拙い英語でRandyに「あなたの音楽がオレの人生を変えてくれました。本当にあなたの存在に感謝します」と伝えた。Randyは一通り「素晴らしい、ありがとう」と返してくれた後に、「アフリカに行きなさい」と伝えてくれた。

私はアフリカには行った事はないが、いつか行くのだろうか。わからない。

しかしそれは間違いなく「行く」のではない。「連れて行かれる」のだ。私がかつて予想だにしなかった音楽家などという居場所に連れて来られたように。

Randyと再会し、私はまた違う所へ連れて行かれる予感を抱いている。少なくとも「音」に関する認識が少し変わった。私はとてもわくわくしている。

という事で珍しくブログを三日ほどサボったりなどしてしまったが、何をしていたかと言えばRandy Westonに会いに行っていたのだ。

素晴らしい体験だった。

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