お知らせ(お詫び)
メルマガ用のgmailのアカウントをいじっていたら、勝手にgoogle+というものに登録されてしまいました。
私よりそのgoogle+絡みのメールが何か来ていたら、全力で無視して下さい。
よろしくお願いします。
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メルマガ9月号送信しました。
登録したのに来てない!という方はご一報下さい。
また、「登録して読んでみたい」という頭のおかしい方は
ancientafrica1@gmail.com
まで配信希望の旨をお知らせ下さい。
ここ数日のニュースで最もショックだったものと言えば、我らの広島カープにおける現在最年長選手(兼コーチ)である石井琢朗選手の今期限りでの引退の報である。いつかやって来る事だとは知りながら、実際に「その時」がやって来ると実に寂しいものである。
ある程度の覚悟はしていた。今シーズンから選手兼任コーチになった時にそんな予感はしていたし、7月の頭頃だっただろうか、石井選手の一軍登録選手抹消(コーチとしてチームには帯同)を聞いて「いよいよその時へのカウントダウンは始まったか」という思いに駆られた。
彼が一度、一歳年下の前田智徳選手と共に勝ち試合のヒーローとしてお立ち台の上に昇った時にこんな事を言った。
「前田くんとお立ち台に立ててとても嬉しい。これでいつでも思い残す事なく引退出来る。いや、優勝したらいつでもユニフォームを脱ぎます」と。
ならばその彼の言葉を単なる「奮起を促す為の言葉」ではなく、有言実行へと変えるために、是非とも今年は広島カープ、優勝して頂きたい。
いやしかし、緒方孝市の引退以来ですよ、こんなに寂しいのは。
ともあれタクローさん!長い間お疲れ様でした!カープに来てくれてありがとうございます!最後、優勝しましょう!
明日は休みだ。
毎日が休みだった時には休みなんて1ミリも嬉しくなかったけれど、休みが嬉しいというのはそれだけ毎日働かせてもらえてる証拠だ。実に良い事だと思う。
明日が休みだ!という日には翌日にやるべき事を考える。これも仕事と言えば仕事なのだけれど、レッスンや演奏などの仕事がある日には出来ない事をそういった休みの日にやる。例えばレッスンやライブの「仕込み」だったりとか、普段の練習だとか、或いは作曲だとか。
全て達成出来れば確かに素晴らしいのだけれど、大体半分達成出来れば良い方だ。だから合格点は「半分」。そんなもんだ。
また、これは大変危険な事なのだが、明日が休みだという前日の夜、つまりは今日の夜、この日にあれこれとエンジョイしたがる悪癖がある。あれこれと、と書いたが端的に言えば飲酒だ。
別に明日二日酔いでも大丈夫じゃーん!という強気な姿勢が、おかわりを一杯二杯と加速させていく。
だって今日たくさん働いたもん…
泥のように疲れてるもん…
という事で、今晩は飲酒で間違いない。
何故こんなにもアルコールを愛しているのか、自分でもわからない。
本日は月イチのメルマガを書いてますので、ブログお休みします。
配信希望の方は
ancientafrica1@gmail.com
まで、配信希望の旨と山手線の中で一番好きな駅を書き添えてメールを一通お送り下さい。お名前などは名乗って頂かなくても結構です。
今月末の配信を予定しています。
今日の正午頃にドラムの南たけし氏よりメール着信あり。
とある悪だくらみ。恐ろしい陰謀を企てて政府の転覆を…
というような内容ではなくて、とある企画の話。とても面白そうな話なので全面的に乗っかっていく事にする。
で、その時に思ったのだが、「こういう仕事仲間」がいるのは本当にありがたいという事だ。「こういう仕事仲間」とは、受動的に「あっ、はい、何でも、仰せの通りにー」というタイプの仲間ではなくて、「こういうのやってみようぜ?」とか「こんな企画面白そうじゃない?」といった感じに能動的に、そしてエネルギッシュに行動する仕事仲間の事だ。
思い付きで「コレ面白いかも!」という所までは、つまり考える所までは、ハッキリ言ってしまえば誰でも出来る。そこに誰か他人を巻き込んで、想像上の空論から現実的な事象にまで昇華させるのはある意味ではものすごく面倒臭い。
けれど誰かが言い出しっぺになって、そこに「おおっ!それ良いじゃん!」と人が連なっていくと、大体の事は現実化していく。頭の中から現実世界へと出ていくのだ。
近くにいる「コレ面白そうじゃね?」と提案してくれる仲間に感謝しつつ、私もまた時によっては提案する側にも回らなくてはならない。そんな事を何となく思った。
「行動」には失敗や恥ずかしい思いや屈辱もついてくるかも知れない。けれど成功もついてくるかも知れない。
そう、「行動」をしない事には失敗も成功もしない。
言われた事や頼まれた事だけやってちゃダメだ。
そもそもこれまでだって、勝手に自分で考えた事を勝手に仕事にしてやって来たんだから。
そんな風に自分に言い聞かせてみた。
朝からあちこちでレッスンですが、移動の合間に気合いの譜読みしてます。
実際にピアノの前に座らないでも、譜面読みながら頭の中でバーチャル練習してるだけでも随分違う。
という事で本日は東中野「Big River」にて「タケシーズ」初ライブです。
後に「これが伝説の幕開けであった」と窪田等(情熱大陸のナレーター)に言われるように頑張ります!
20:00スタートです。
宜しくどうぞ!
生まれ変わったら何になりたい、なんて話をあまり真剣には考えた事は無い。
どうせまた似たような事になるだろうし、どこかで私もそれを望んでいる。来世(そんなものがあるとして)で劇的な変化があるとは思えない。だからまた今と同じようにピアノなんてものを細々と飯の種にして、今と同じような家族と一緒になれればそれが一番良いんじゃないか、そんな風に思っている。
けれどやはり空想の世界においては、別の職業についていたらどうなのだろうか、なんて事は考える事だってある。
私がよく空想する職業が三つある。
一つはベーシストである。私はベース、もしくはコントラバスという楽器が大変に好きで、その楽器奏者であったらという事をたまに考える。これは現在の仕事に随分近いジャンルの仕事なので、比較的想像もしやすい。楽器の運搬がとにかく大変だという事もわかる。憧れの職業の一つである。
余談であるが、数多いる素晴らしい日本人ベーシストの中で私が最も好きなベーシストは吉野弘志氏という方だ。初めて氏の演奏を見た時には「こんな風に鳴らされたらコントラバスもさぞや幸せだろう」と思った。聴く者を幸せにするベーシストだ。他にも素晴らしいベーシストは何人もいるのだが、私がこれまでに見た中では吉野氏が一番好きだ。外人は好きなベーシストはいっぱいいる。レイ・ブラウン、チャーリー・ミンガス、ジョン・シモンズ、ジミー・ブラントン…挙げだしたらキリがない。
もう一つのなってみたい職業は、小学生みたいな事を言ってしまうが、プロ野球選手だ。私と同じく、毎年新人ドラフト会議の時には「オレの名前呼ばれねえかな」と思いながらドラフト会議を見てしまう人も少なくないだろう。出来れば中国地方に本拠地を置くユニフォームの赤い球団を希望したいが、そこは我が儘を言うまい。背番号も51番か31番か1番を希望したいのだが、そこも我が儘は言えない。まあプロ野球選手であれば良い。
ヒーローインタビューで「こんなね、怪我ばっかりしてね、チームに迷惑かけてばっかりの選手を応援してくれてありがとうございます」とか言いたいのだ。
さて、余汰話もいい加減にして。もう一つのなりたい職業。それは漁師だ。ひょっとしたら私が最も「カ、カ、カカカカカッチョイイー!!」とシビれてしまう職業は漁師かも知れない。私は漁師という人々に並々ならぬ憧れを抱いている。
もちろん楽な仕事ではない事など重々承知だ。朝は早く、労働は過酷だ。そしてそれに見合った報酬があるかどうかも不安定だ。しかしそれでも私は海に出ていく男達を見て「カッコ良すぎるっ!」とシビれざるを得ないのである。
昨日の夜に、テレビで漁師の密着ドキュメンタリー番組がやっていた。もうそれを見て興奮しっぱなしの私である。マグロ漁の漁師であるとか、カツオの一本釣りの漁師であるとか様々な漁師がたまらなくカッコ良かった訳であるが、取り分け私の心を捉えたのがメカジキ(カジキマグロ)漁をする漁師達である。
メカジキ漁の方法、それは大変に原始的な方法で、何と「船の上から銛(モリ)でメカジキを突く」というものである。
船上に高い矢倉のようなものがあって、そこで獣のような眼をした漁師が海面に浮上したメカジキを肉眼で見つけ出す。
見つけ出したら大声で叫ぶ。
「メカ(メカジキ)だあっ!メカメカメカぁぁぁっっっ!!!」
すると船の最前線に構えた屈強な男の眼が光り、手に鋭い銛が握られる。
船はメカジキへ向けて一直線に走る。そして船がメカジキの上を通過する直前で、男の手から銛が投げ放たれる。全て人力である。
そして…
ズドーン!!
銛がメカジキに命中し、あとは銛ごとメカジキを引き上げる、という寸法だ。
まさに海上の狩猟である。いくらテレビとは言え、これを見て興奮するなというのが無理な話だ。
齢70を超えた年老いた漁師はテレビ越しにこう語った。
「やっぱりさ、銛投げる瞬間は興奮すんだよね」と。
深い皺を顔中に刻みながら。そして不敵に微笑みながら。
「漁師超カッコ良い!漁師超カッコ良いよ奈美子!」と私は興奮しながら妻に向けて語りかけるのだが、妻は「ふーん」という風情で取り合ってくれなかった。
あれを見て興奮しないとは、あいつチンコ付いてないのんか!
いやいや、漁師、カッコ良いっすよ。
さて、明日は東中野「Big River」で遂に「タケシーズ」の初ライブです。
ピアノ福島剛、ベース野々口毅、ドラム南たけしの「3たけし」でお届けします。
ジャズやるでよ!ジャズ!
20:00スタート、ミュージックチャージは2000円です。
宜しくどうぞ!
誰でも口ずさめるメロディーってやっぱり好きだ。
Abdullah Ibrahim先生の「マネンバーグ」や「アフリカンマーケットプレイス」を聴いていて強くそう思う。
シンプル・イズ・ストロングっていうかね。
来週の21日(火)は東中野「Big River」で噂の「タケシーズ」、初ライブですからね。皆さん是非お越し下さいよ!
で、その時にやる演目やそのアレンジを考えていて、その中の一つにJohn Coltraneの作った「Giant Steps」という曲があって候補の一つに挙がっている、自分の中で。
この「Giant Steps」という曲だが、ジャズをやっている方ならご存知の方も多いだろうが、なかなかに「極悪な曲」として知られている。理由は、かなりのテンポの速さの中でものすごく目まぐるしく頻繁に転調をするから、だ。
久しぶりに弾いてみたら、やっぱりなかなか難しい。ある程度のテンポになると頭がこんがらがりそうになる。
二十代の頃に、この「Giant Steps」なんかはよく練習した。この曲だとか「ビバップジャズ」と呼ばれるジャズの楽曲群だとか。そういった曲を練習する事が自分にとっての基礎練だった。だから私はその時代、1950〜60年代のジャズの影響というのは多分に受けている。
そこから段々と「コードの数は少なければ少ない方が良い」、「メロディもシンプルなものが良い」といった価値観が自分の中で強くなり、あまりライブなどではビバップをやらなくなったのだが、今回は久しぶりにそのビバップを引っ張り出して来て、やろうかな、と。
確かにビバップは久しぶりにやるとなかなかに難しい所もあるのだけれど、流石に昔散々やったせいもあって、やっていれば直ぐに思い出す。
来週21日火曜日、東中野「Big River」で20:00〜。ピアノが福島剛(タケシ)、ベースが野々口毅(タケシ)、そしてドラムが南たけしの「タケシーズ」。音楽は本気ですので、是非ご来場下さい!
今日と明日が休みで二連休。
やらなくてはいけない事がいくつかあるので、それは明日に回して今日は休養の日。
久しぶりにのんびり料理したりパソコンいじったりしてました。
ので、頂いていたコメントなんかもレスしてます。
随分「疲れが溜まってんなあ」という実感もあったのだけれど、だいぶとれた気がする。
明日は実家行ってエレベ(ベース)とってこなきゃ。
私の仕事が夜に一つレッスンがあるだけだったので、かみさんと昼間にメシを食いに出かける。ちょっとしたデエトである。
慎重なる協議の結果、「上野辺りにつけめんなんぞを食いに」という事で合意に至る。我が家の目の前にある京成小岩駅から上野までは、乗り換え無しの一本で着くので便が良いのだ。
さて、何処の店に行くかと思案した所で、友人の「メンラー博士」ことN氏にメール。「上野辺りでどっかつけめんの美味い店知りませんかね?」と。
返ってきた答えは「御徒町にある三ツ矢堂製麺というのが相当な好きモンでお好きな方にはたまらないというウハウハなアレらしい」という回答。これは迷わずその店に行くしか無かろうっ!迷わず行けよ!行けばわかるさ!アリガトー!と私の脳内のA猪木がソウルフルなシャウトをカマしたので、かみさんと共に御徒町にある三ツ矢堂製麺へ。
「やれんのか!オイっ!」と店の暖簾をくぐって私とかみさんが注文したのが添付写真のもの。私が「辛何とかつけめん」、そしてかみさんが「柚子何とかつけめん」である。
結論から言おう。大変に美味かった。見た目よりも遥かにあっさりとしたスープには様々なダシのコクがあり、何よりも麺が美味かった。「ああ、麺って小麦で出来てるんだなあ」という当たり前の事を実感出来る程に豊潤な薫りと爽やかな喉越しを備えた麺で、大盛の600g、貪るように完食してしまった。
店員の接客も過不足の無い丁寧なもので、私とかみさんは実に気分の良い昼食を取る事が出来た。
10点満点で評価するならば9点。足りない1点は値段である。ちょい高いかな、という感じ。東京の上野という土地を考えれば致し方ないのはわかるのだけれど。
などというように評論家ぶって偉そうにラーメンレポなどをカマしてみたが、実際に私がどれだけ味の事がわかっているかなどと言えば、極めてそれはいい加減なものである。私は私の舌の審美眼には何の自信も持ってはいない。結構何でもかんでも「ウマイ!」と言う。
であれば本日の三ツ矢堂製麺での楽しい食事、これにはやはり私とかみさんとが珍しく仲良くしていた事がつけめんの美味さを引き立てていたと考えても良い。夫婦喧嘩をしていて仲が悪い時などにはどんなに素晴らしいものを食っても気分が悪いという事だってあるのだから。
平和の事を考え直すべき8月15日という日に得た教訓である。
「まずは家庭の平和から」
少しだけ音楽の事を。
リズム(テンポ)の話で、「走る」という言い方をする事がある。
ジャズなどを演奏する時には最初に提示されたテンポから変わらずに最後、その曲が終わるまで一定のテンポで演奏する、という事が多い。この一定のテンポを保つ事を「テンポキープする」などと言うが、その一定のテンポから外れて段々と早くなっていく事を「走る」と言う。逆に段々と遅くなっていく時には「モタる」などと言う。どちらもあまり良い意味では使われない。
テンポキープをする為には、メトロノームを使ったトレーニングが有効とされる。確かにそういったメトロノームを使った訓練は私は必須だと思っている。
だがしかし、「走る」事や「モタる」事を私は必ずしも絶対悪だとは考えていない。というのも、「走る(モタる)」のには二種類の「走る」があるからだ。
テンポが段々と早くなっていくという現象には二つの要因が考えられる。
一つは「次の拍の然るべき位置(タイミング)まで待ち切れなかった」というパターンである。これはあまり良いものではない。
例えば次の拍が打たれるべき然るべきタイミングがジャスト一秒後だったとする。その時には「今」という瞬間からきっちり一秒後にその音を打たなくてはならない。しかし、その一秒が待ち切れずに、0.9秒ほどの間隔で打ってしまった。当然次の拍は0.1秒早く入って来てしまって、テンポがどんどん早くなる。これはいけない。間隔(時間)が狭くなったのに比例して音楽がせせこましくなってしまう。
それとは別にもう一つ、「拍を先取った」パターンが考えられる。0.1秒だけ先に次の拍を打つというこのパターンは実はカッコイイ事も少なくないのだ。
先程挙げた「待ち切れなかったパターン」の場合、その待ち切れなかった分の拍が狭くなってしまう、という話をした。しかし、この「先取ったパターン」は拍が狭くならないのだ。いや、実際には厳密に言えば狭くなっている時もあるが、それによるせせこましさよりも「グングンと音楽が前進していくような感じ」、ドライブ感などという言葉で表現される事もあるが、そんな感じを聞き手に印象付ける事が多い。この際の「走る」は「「別にカッコイイんだから良いんじゃないかな」と私は思う。
私が個人的に好きなピアニストにジーン・ハリスというピアニストやモンティ・アレキサンダーというピアニストなどがいるが、彼らはしばしば「カッコ良く走る」。レコードを聴いていて、ずっとin tempo(一定のテンポ)であった筈なのに、曲の頭と最後とで大分テンポが違う、最後の方が大分テンポが早いなどという事が度々ある。
途中で「おっ、走ってる走ってる」などと気付かない訳でもない。しかし、「うおっ!めっちゃグルーブしてドライブしてる!ごっつカッコイイ!」の方が先について、その「走っている事実」が悪い事ではなくなってしまうのだ。
このように「走る」事が必ずしも悪ではないというのが私のリズム観(感ではなく)だ。
ここには「自覚」の問題がある。
待ち切れなかったパターンの場合、つまり待ち切れずに0.1秒早く打ってしまったパターンの場合には、打った本人が0.1秒早かったという事に気付いていない事が多い。それに対して0.1秒先取って打ったパターンは、0.1秒早かった事は本人には分かっている。何故ならば本人は能動的に「ちょっと早く打とう」と思っているのだから。これが大きな違いだ。
そうなるとやはりメトロノーム的な「正確な一秒」を把握する能力が大事だよという事になるのだけれど、もう今日はこの辺で。
書いてたら眠くなってきた。
朝からひたすらぶっ通しでピアノのレッスンなんぞをやっていたらこんな事を思ったよ、という話でした。
今から映画の打ち合わせ。眠気が半端じゃない。
金のかからない遊びを模索し続けてもう随分と経つ。
食べ物なんかもそうで、金を出せばある程度美味いものが食えるというのはわかっているのだが、安いものを美味く料理出来た時の喜びは高価な美味いものを食べた時に匹敵する。昨日などはかみさんが近所のスーパーで1パック10円という信じられない金額の豆アジ(10cmぐらいの小さいアジが何匹か入ったもの)を買ってきて南蛮漬けを作ってくれたが、美味かった事も勿論嬉しいのだが、その安価さに「でかしたっ!」と唸らざるをえなかった。
清貧の美徳、などという事を言うつもりではない。金を持っている人間は金を遣えば良いし、現に私だって金をたくさん持っている訳ではないが遣う時には遣う。
しかし何なのだろう、この「こんだけ楽しい(美味い)のにこんなに安い!」という時の「勝った感」。
大阪のBBA(妙齢の熟女の意)達がよく「なあなあこのバッグこないだ買(こ)うてんけどナンボに見える?」などという会話をよくしているのを見かけるが、この時にはちょっと高めの金額を言うのが礼儀だ。
「一万円ぐらい?」
「ちゃうねん!3000円やねん!」
「えー!やっすー!見えへんわー!」
恐らく大阪という土地で一日に五万ダース回ほど繰り広げられる日常会話である。そう、「こんな良いモノをこんなに安く買った」という自慢なのだ。
どうやら私にもその大阪BBA(オバハンの意)マインドが備わっているらしく、確かに私も「高くて良いのは当たり前、安くて良いのが勝ち」という価値観からなかなか離れられずにいる。
そんな愛染の黒板(きょうこのごろー、の意)、本日は実に「金を遣わずに楽しそうなイベント」が待っている。
ペルセウス座流星群、というのがそれである。
詳しい天文的な事情はよくわからないのだが、とにかく今晩、北東の空に流星がばんばか流れるとの事だ。驚くべき事に、観覧料はダータ、つまり無料である。何故ならば空だから。
という事で今晩私は我が家に住んでいるBBA(ババアの意)、別名「かみさん」とペルセウス座流星群を見に行く事にした。
コンビニで缶チューハイの一本も買って。
流れる星は今が綺麗で、ただそれだけに悲しくて。流れる星は微かに消える。思い出なんか残さないで。君の欲しいものは何ですか。
吉田拓郎の佳曲、「流星」の一節である。
金を遣わずとも、人生はそこそこ楽しい。
昨日のメモ
レッスン終わりにピアノの生徒が何故だかビールを買ってくれた。嬉し。
義理の姉(嫁の姉)夫婦が泊まりに来た。2点以上がアウトな「久里浜式アル中テスト」で義姉の旦那は12点、私は13点。
夫がしこたま酔っ払ってしまった時には保護者である嫁は大変らしいと姉妹の会話。
以上。
さて。
麦わら帽子はもう消えた。田んぼの蛙はもう消えた。
そう、今日の話は「夏休み」である。
思えばここ何年かは夏休みらしい夏休みはとっていなかったと思う。
というのも、それよりも数年前には私は仕事が全然なかったので一年中夏休みのような状態だったのだ。それが段々と仕事にありついて来て、何とかありついた仕事を離さないようにとやっていたら、気付けば夏が終わっていたというパターンである。学生の期間も人より長かったし、その後の「長期休暇状態」も長かった。別に夏休みなんぞ無くとも良かろう、と思っていた。
しかし、私は自らの事がまだまだわかっていなかったのだな、という事を最近になって痛感する。
そういえば私はホームラン級の怠け者であったという自己認識、これに少々欠けていた。
仕事は楽しい。仕事の内容には何も文句は無い。ピアノを教えたり演奏したりという私の仕事、これは自分で選んだものだし、自分でやりたいようにもやっているのだから文句のつけようも無い。
しかし日々休み無く働いていると、私の中にフツフツと沸き上がる欲求。抗いがたい、まるで運命のような希求。
そう、「サボりたい!」である。
かつて武田鉄矢は「母に捧げるバラード」の中で母からのこんな言葉を代弁した。
「人様の世の中に出たら、働け、働け、働けテツヤ。働いて働いて働き抜いて、休みたいとか、遊びたいとか、そんな事一遍でも思うてみろ。そん時ゃあ、そん時ゃあ、死ね。それが人間ぞ。それが男ぞ」と。
この理屈から言うと、私などは101回ぐらい死ななくてはいけない事になる。遊びたいとか休みたいとか、実に頻繁に思っているので。
しかしね、しかしここで言いたいよ!あの言葉を叫びたいよ!
「ぼくは死にましぇん!」と。
そんぐらいで死ぬ訳なかろうが!我々はパンのみの為に働いているんではないったい!くらすぞきさん!
私は休みたい。遊びたい。なので今年は夏休みをとる事にした。
夏休みの日程は既に決めた。9月10日〜13日の四日間だ。この期間に「休む!」と決めた。休む休んで休む時休めばである。ついつい語尾も活用してしまう。
しかし、この為にあれやこれやと仕事を調整しないといけないのもまた事実。各所にかける迷惑の度合いを最低限に抑える努力をしなくてはならない。
夏休み。
何と甘美な響きだろうか。
夏休みにはジンギスカンを食べて、鮭を釣ってキャンプをするんだい。
オリンピック、女子レスリング。
小原日登美選手、伊調馨選手に続いて吉田沙保里選手が金メダル。
実は昨晩は酔い潰れてしまい、決勝戦はリアルタイムでは観戦出来なかったのだが、朝起きて金メダル獲得の報を聞き「流石」と唸る。二日酔いの頭で。
小原選手に関しては初めての金メダルという事もあり、「おおっ、やったなー!」という印象もあったのだが、正直言って伊調選手と吉田選手の三連覇コンビに関しては「やはりな」という印象の方が強い。
これが途徹もなくスゴイ事だと思うのだ。
イチロー選手が何年も連続で200本安打を打っていた時もそうだ。
伊調選手吉田選手の三連覇やイチロー選手の連続200本安打など、記録としてはべらぼうにトンデモナイ記録である。しかし、驚きよりも「やはり達成したか」と思わせる事、これがスゴイ。
彼等はそういった記録を達成した時もニュースで騒がれるが、それと同様に記録が達成出来なかった時に、その「達成出来なかった事」がニュースになる。つまり多くの人達が「勝って(打って)当たり前」とどこかで思っているのだ。
それはここまで間断無く築き上げて来た記録という名の信頼である。その絶大な信頼があるからこそ「彼等ならば間違いなくやってくれる」と我々ファンは期待する。
スポーツにおいてのみならず、日常生活においても信頼というものは築くのは難しく、失うのは易い。一度や二度の成功では簡単には信頼など得られないし、逆に一度の失敗で信頼など脆くも崩れ去る事など珍しい事ではない。信頼とはそういうものだ。
であるからこそ我々ファンから絶大な信頼を得た上で更に結果を出してしまうアスリート、これはスゴイ。
吉田沙保里選手に至っては記録の上ではかの絶対王者「霊長類最強の男」カレリン選手に並んだそうだ。次の世界選手権で優勝すればカレリン選手の記録を破るそうだが、そのような事が起こっても我々はきっとこう思うだろう。「さすが吉田沙保里」と。
この絶対的な信頼感。
本当にスゴイ。
小原選手、伊調選手、吉田選手。心からおめでとう。
今日は仕事終わって東中野へ。
いつも歌の伴奏をしている大塚美香ちんが今日は初めての弾き語りライブだという事で。
実は彼女、ジャズを歌い始めたのはここ数年の事で、元々はクラシックのピアニスト。音大も出てる。
だからクラシックを弾かせたら私なんかよりも遥かに上手い。というよりも私よりもクラシックの下手なピアニストなどいないのだけれど。
だってしょーがないじゃん、譜面読めるようになったのもここ五年ぐらいの話だし。
という事で安心して見ていられると思います。
あと、その内私もクラシックだけのピアノコンサートやったる。
30年後ぐらいに。
作曲をしている時にはメロディーとコードのどちらかが出て来て、合うものを探していくというのが殆どだ。
私の場合はメロディーが先に出て来る事が多くて、コードは後からという事が多い。これがガッチリはまるコードがなかなか出て来なくて四苦八苦する訳だが、しっかりハマった時は実に気持ちが良い。
大体そういう時には私の脳内ではプロレスのリングアナウンサーみたいな奴が登場して実況をする。
「ここで出たーっ!渾身の分数コード!ルート音は9度!ガッチリ決まりましたーっ!」
だの
「出たーっ!必殺のハーフディミニッシュ!何と美しい!」
といった具合に。
今日もそんな事をやってましたよ。そ、今日は9度ルートの分数コードとハーフディミニッシュがキマった時にこのアナウンサーが登場したんです。
古館伊知郎よりやかましかったです。
つい昨日ぐらいに八月になったばかりかと思っていたら、あっという間に一週間が過ぎていた。実に日が経つのが早い。
今日は丸一日あちらこちらでレッスンの日。
明日は昼間にはずっと曲を書かなくてはならないし、夜はライブだ。
何だかんだでバタバタしております。
来月、四日間ほど北海道に旅行をする予定なのだが、その旅行の計画が楽し過ぎて仕方がない。
北見、という北海道の東側にある街に住む友人Tに会いに行くのがメインの目的であるのだが、飛行機がどうにも旭川に到着する便しか安いものが無く、旭川にまずは降り立つ事にした。
旭川ではどうしても行きたいジンギスカン屋があるので、そこは外せない。絶対に行く。幸いにしてTも北見から旭川まで出張ってきてくれるらしいので、初日の夜はジンギスカン→旭川の呑み屋のコースで間違いない。
二日目以降の予定なのだが、今現在Tとの間で「コレは良いんじゃない!?」と盛り上がっているのが「キャンプの旅」だ。
北海道にはあちこちにオープンキャンプ場があるらしく、そこにテントを張ってという事を二日間やってしまおうか!というノリである。
考えてみてほしい。キャンプ場までの移動の最中に、北海道の大地の恵みである食材を買い集め、それらを炭火で焼いたりなんぞしながら野外で喰らい、ビールを呑むのだ。楽しくない訳がない。そして美味くない訳がない。
いかに大袈裟に、そして感情的に「美味いっ!」と叫べるか、という「美味い部」の活動を続けて久しいが、この旅行においては随分と精力的に「美味い部」の活動をしなくてはならなさそうだ。
もうね、正直言って今日行きたいぐらい。北海道。
片方はシロギスの刺身。甘くてコリッとしていて最高です。ワサビ醤油との相性がグンバツ。なかなかお目にかからない一品でございます。お酒とも奇跡のマリアージュ(死語)、魚は昨日父親からもらいました。
もう一つの写真は、実家の近所にあるラーメン屋「バリバリジョニー」の塩ラーメン。ちょっと変わった味のラーメンなのですが、大変美味いです。スープに色んな野菜の味がします。複雑な味わいがキレイに一つにまとまっていて秀逸です。チャーシューも美味い。「毎日食いたい!」という感じではないのですが、二週間か一ヶ月に一度ぐらい「むおおお、ジョニー食いてえええ」となる感じです。
そんな訳で、今日も元気に太っております。
オリンピックの柔道、全日程が終わり、日本は金メダルは松本薫選手の一つのみ。男子に至ってはゼロ。
試合内容を見ていればそれも仕方ないか。
今回よく言われるのは、世界の選手は「JUDO」をしていて日本の選手は「柔道」をしている。現行ルールでは「JUDO」が有利なのだから、そういった所から既に負けている、というような意見。
これに関しては真っ正面から異論を唱えたい。
私が感じたのは「柔道」という土俵でお互いに「柔道」をやって、それで負けたという事。つまり外国選手達も存分に「柔道」をしていたという事だ。「JUDO」を安易な言い訳に使ってはいやしないか。
一本を取るのが柔道、ポイントを重ねていくのがJUDO、という見解が横行しているようだが、私はそれは違うと思っている。
柔道という競技のある種の特殊性として、「競技が突然終わる」という事がある。例えば野球の場合、九回裏のサヨナラの場面でもない限り例え満塁ホームランが出たとしてもそこで競技は終わらない。まだ競技は続いていく。サッカーだってそうだ。仮に13対0なんてスコアになったとしても、時間がまだ残っているのであれば試合はそこで終わらないのだ。
それが柔道などの競技になった場合、「一本」となった瞬間に競技が終了する。そこで勝負が決するのだ。
「柔道」とは何なのか。
これは私の解釈だが、一言で言ってしまえば「最後まで攻め続けるのが柔道」だと思っている。その結果としての一本だ。
今回のオリンピック柔道、有効や技ありなどのポイントを先制した後に守りの姿勢に転じる日本人選手というのを何回か見た。それを見るにつけ「守るな!攻めろ!」とテレビの前で大絶叫の私である。
仮にポイントを先制したとしても、それが一本でない限りはそこから後に何が起きるかはわからない。ふとしたタイミングで技が決まり逆転負けなどという事は柔道においては日常茶飯事だ。だからこそ、ポイントを取ったらそれを守りにいくのではなく、更に攻めて試合を終わらせに、言葉を変えれば「トドメを刺しに」いかなくてはならないのだ。
確かに現行では柔道はスポーツである。しかしその起源は武道であり格闘術である。戦場でトドメを刺し損なった相手に後からやられるなど、それはお話にもならない。
ならば審判が勝敗の軍配を上げるその瞬間まで、一時も気を抜かずに攻め続ける事こそが武道としての「柔道」なのではないだろうか。
そういった姿勢においては、フランスや韓国の選手達が日本人選手達よりも勝っているように私には思えた。
唯一、金メダルの松本薫選手だけはそういった「攻めの意識」では群を抜いているとは感じられた。これは全選手の中でもトップだったかも知れない。
決勝戦の雌雄が決するその瞬間まで、彼女は研ぎ澄まされ洗練された獣のように気を緩めずに相手を攻め続けていた。準決勝のフランス選手との試合を見ながら「間違いない、コイツは優勝する」と思った。
彼女の試合はこれまでの国際試合などでも何度か見ていたが、オリンピックにおいては技のキレが普段よりも劣っているように感じられた。しかしそれでもなお、「この実力者がこの攻めの姿勢で柔道をしていたら十中八九負けないだろう」と思わされるに十分な試合運びだった。
攻めの意識に欠けた守勢柔道で外国勢の後塵を拝している事のエクスキューズに「JUDO」などと曖昧な言葉を用いてはならない。
今回日本柔道は、きちんと「柔道」の土俵で負けた。
この認識を明らかにしない限り、日本柔道の未来は暗いままだ。
嘉納先生が興した日本の誇るべき「柔道」。まだまだ再起は可能な筈だ。
発奮を期待したい。
さて、本日8月4日は上野アリエスでのライブ。ハーモニカ皆川和義とボーカル大塚美香と。19:30からです。
お近くの方は是非お立ち寄り下さい。
昨日書いたブログ記事が更新されていない、という謎。昨日の矢切ビールまつりの写真を投稿したのだけれど。何か最近このニフティブログもおかしいなあ。
今日の記事はちゃんと投稿されるかな。
第一回目のメルマガにはオリンピック柔道の事を書いたのだけれど、もうそれしか書く事が無いってなもので、ここの所オリンピックばかり見ている。
仕事終わって帰る→酒を呑みながらオリンピック観戦→眠くなって寝る→起きて仕事に行く、というこの繰り返し。なので今日も少々オリンピックの事を。
オリンピックを観ていて気付いたのだが、「偏食家(元偏食家を含む)」の多い事。現在日本の金メダルは二つだが、その二つの金メダルを獲得した体操の内村航平選手と柔道の松本薫選手、この二人ともが極度の偏食家であるというのだ。
いわゆる「栄養バランスの取れた食事」というものよりも、お菓子やファストフードなどのジャンクな食べ物を好み、野菜は嫌い、というそういう食事らしいのだ。先日ニューヨークヤンキースへの移籍を発表して世間を驚かせたイチロー選手もそういった偏食家の一人だというのをどこかで聞いた事もある。世界レベルでトップクラスの運動能力を誇る彼等が、である。
私の狭い了見の中ではどうしても「野菜たっぷり、ビタミンやミネラルもバランス良く摂取して、なおかつ高タンパクで低カロリーな食事」、そんなものがアスリート達に適した健康的な食事だと思ってしまう。実際にそういった事に万全の注意を払う選手は少なくないようで、野球のダルビッシュ有選手などはトレーニング後や試合後のサプリメントの摂取量や摂取タイミングなどにも深く注意しているそうだ。
内村選手や松本選手、そしてイチロー選手といったトップアスリート達が偏食であるにも関わらず、世界最高峰の運動能力を誇る事について、私は二つの事を思った。
一つは、彼らは現時点で「凄まじく健康的」であるが為に、わざわざ食事にまで気をつけなくては良いのではないか、という事だ。
そういった世界トップレベルのアスリートと私などを比べるのも少々おかしな話ではあるのだが、私がまだ二十代の頃、何を呑もうがどれだけ食おうが体重も変わらず、血圧等の数値にも何の異常も出なかったその時、確かに私は何も食事に気をつける所は無かった。好きなものを好きなように食べていたし、栄養バランス等も殆ど考慮に入れていなかった。原因は簡単だ。「それで何も問題は無かった」からだ。少しずつ腹が出て来たり、体力が落ちてきたり。そんな事をきっかけに食事の事を少しずつ考えるようになってきた。しかし彼らはそんなに腹のたるみまくった私などとは違い、ある意味では「べらぼうに健康な身体」を持っている。
この事から私がふと思ったのは、無茶苦茶に健康な身体には健康的な食事などあっても無くてもあまり変わらないのか?という疑問である。
んなこたないだろ、と思っていただいて結構だ。もちろん私も基本的には「んなこたないだろ」と思っている。
しかし、現実に運動の世界チャンピオンが偏食家であるという事実を目の前にして、このような疑問が湧き出て来るのもおかしくない話なのである。
もう一つ、私が思った疑問。これは大変な極論であるのだが、「ひょっとしたら健康的な食事というのは様々なバリエーションがあるのではないか?」という疑問である。
それは先程書いたように「野菜たっぷりでビタミンとミネラルも豊富で、高タンパク低カロリーで云々」といったような枠にはまったものではなく、場合によってはジャンクフードと糖分と脂質にまみれた食事でも人によってはそれが「健康的な食事」になるのでは、といった疑問だ。
私自身が自分の思う「健康的な食事」を変えようと思うには至らないが、今回のこの「偏食家達の活躍」は、スポーツ栄養学に何か一石を投じるのではないか。何となくそんな気がしている。
さて、今日は池袋「ばがぼんど」でボーカルの千葉陽子さんとのデュオ。19:30から23:00までたっぷり4ステージ。ノーチャージですのでお気軽にどうぞ!
仕事が終わった瞬間に「一刻も早くアルコールを摂取しなくては!」という思いに駆られるというのは、よく言う「呑み助あるある」である。
「アルコールが切れて手が震えてきた!」だの「アルコールを摂取しないと不安で小さいお友達がたくさん見える!」だのというのは「アル中あるある」であるからいささか様相を異にするので誤解のなきように。
かく言う私も一介の呑み助であるので、仕事が終わればやはり何はなくともビールをグビリといっておきたい。お茶でもなく、コーヒーでもなく、やはりSAKE(エスエーケーエー)酒である。
今日の仕事終わりは千駄ヶ谷でのレッスンだった。レッスンが終わって教室を片付けて、生徒と別れたら即座に頭の中に「I need beer(オレにはビールが必要だ)」の文字が浮かんだ。続いて「as soon as possible(可及的速やかに)」の文字。そう、まさに私はビールを渇望していた。
千駄ヶ谷で私がレッスンをしている教室からJRの千駄ヶ谷駅までは徒歩にして10分強の距離がある。この夜の街をのんびりと散歩しながらビールを呑むのが実にオツなのだ。
暑い夜の帳(とばり)を抜けてコンビニへ!コンビニで買う一本の缶ビール!「あ、袋いらないっす」の一言も忘れずに!
そんな感じでテンションを上げながら買って、コンビニから出るやいなやプシュリして呑むビールの美味い事美味い事。しかも仕事終わりだぜ?この開放感以上の調味料は無いぜ!
そんな事を思いながら夜の千駄ヶ谷の街の路上でビールを堪能した。
美味過ぎた。この世のものとは思えぬ程に美味過ぎた。
千駄ヶ谷の駅に着いた時に、私が「おかわり」の一本を買ってしまったのはある意味では仕方の無い事と言える。
さりとてさしもの私も電車内の飲酒にはいささかながら心が痛む。公共の場のマナー、そういうものも考えられるのがジェントルな30代男子のあるべき姿である。
これが日中の京成線の中などならば飲酒しても構わない。私の中の「俺ルール」だ。理由は簡単だ。人がいないからだ。
だがしかし大都会東京砂漠のセントラルを走るJR線。しかも帰宅の途につく者達でごった返す電車の車内である。この車内での飲酒はなかなかに憚られる。隣人との距離が近すぎる。
もし私が車内のうら若き乙女であれば、隣に汗くさい小太り(なおかつ坊主でヒゲ)のオッサンがやってきてビールを呑み始めて、なおかつ小声で「美味過ぎるっ…!悪魔的だっ…!」などと呟いていたら、即座に「この人チカンです!」の大声を上げて冤罪裁判の果てなきスパイラルへゴーだ。チカンなどしていなくとも、だ。それほど迷惑な訳だ。迷惑にも程がある。
好き好んで積極的に他人に迷惑をかけてはならないという不文律から、私はJR車内での飲酒を断念した。
私は思案した挙げ句に、駅のホームのベンチに腰掛けてやおら飲酒を開始した。これならば何も問題は無い。誰にも迷惑はかからない。呑み終わった空き缶を入れるゴミ箱だってホームにある。完璧過ぎる。
私は千駄ヶ谷の駅のホームで飲酒に興じていたのだが、これが想像以上に良かった。
JR千駄ヶ谷駅の北側には一面に新宿御苑が拡がっており、駅のホームからも新宿御苑が目の前に見える。
無論夜の9時過ぎ、開園時間はとうに過ぎており、御苑は静かで穏やかな顔を湛えている。
しかし私はすぐにいつもと違う異変に気がついた。この季節ならではの異変である。
昼の喧騒から逃れた夜の新宿御苑のその中で、決してうるさくはない、メゾピアノぐらいの音量で蝉達が鳴いているのだ。
ジワジワという薄い蝉の鳴き声が実に耳に心地好い。この蝉の鳴き声を聞きながら嗜む一本の缶ビール。これほどの風流が他にあるだろうか。いや無い(反語)。
これは少々癖になりそうだ。
この季節、帰りの道を急がないのであれば、千駄ヶ谷駅に降り立ってベンチに腰掛けてみると良い。きっと心地の好い蝉の鳴き声が聞こえる筈だ。
そこで呑むビールは、どんな高級なビールよりも美味い。
たとえ発泡酒でも。
たとえ第三のビールでも。
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