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2012年7月23日 (月)

バド・パウエルは決して諦めなかった

珍しくiPodなんぞを持ち歩いて音楽を聴きながら移動してみる。

私の持っているiPodには便利な機能が付いていて、「シャッフル」という機能がそれなのだが、iPodの中に入っている数百曲ばかりの音楽の中から機械が勝手に選んで「まあお前は今はこれでも聴いとけや」といった具合に曲をかけてくれる機能なのだが、こうやってたまにiPodを持ち歩いて音楽を外で聴く時には十中八九私はこのシャッフル機能を使う。理由はあまり無い。

そうやって無作為に音楽がかけられる中で、今日はある瞬間にピアニストであるバド・パウエルの音楽がかかった。

バド・パウエルというピアニストは私がジャズを始めた最初の頃に好きになったピアニストの一人で、今でも大の憧れでありお気に入りなピアニストである。

しかしこのバド・パウエル、録音された時期によってはかなり「酷い演奏」のものが幾つかある。原因はイケナイお薬と重度の心の風邪等である。

その演奏は一言で言ってしまえば「拙い」。凡ミスの連続、リズムにも不正確な所が多い。

パウエル本人の名誉の為に言っておけば、バド・パウエルというピアニストはジャズピアニスト史上の中でも稀有な程の技術を持ったピアニストである。その技術が瑞々しいほどに発揮された演奏を一度でも聴いた事のある人ならば、その「拙い演奏」は、果たして本当にパウエル本人によるものなのか?と首を傾げたとしても何らおかしくはない。

そういった「拙い演奏」の中にも心を打つものが無い訳では無い。彼が死ぬ間際に残した「ゴールデンサークル」というアルバムなどは不思議な程の美しさと鬼気迫る緊張感を携えた素晴らしいアルバムだ。聴く度に背筋に電流が走るような感動を覚える。

しかしそれらはあくまで例外なのだ。

パウエルの録音の中でのそれ以外の雑多な演奏を聴いた時に、正直に言えば私は不愉快な気分になる。そして悲しい気持ちになる。

その時に私の頭に浮かぶのは「下手くそは悪だ」という事である。

確かに音楽は技術のみで演奏されるものではない。エモーショナルな部分であったり、そういった「心」の部分で演奏されるものも多分にあるし、技術や心や様々な要素が複合的に織り重なる事で感動的な音楽は生まれる。私はそういう風に理解をしている。

たまに音楽をしている人間から聞く言葉で酷く落胆する言葉がある。「心のこもった演奏ならば技術は必要ない」などと。

そんな言葉を聞いた時には心の中で「アホか」と毒づきながらひたすらに苦笑いである。そんなアホな話は無い。

「心がこもっていれば」などというのはそもそもおかしな話で、心がこもっている事がそもそも大前提なのだ。そしてその心を表現する為の「技術」なのだ。

音楽やそれらの芸事の道を志した人間には、その瞬間から修練の荷が背負わされる。「少しでも上手くなりたい、少しでも豊かな表現技術を体得したい」そういった欲求に支えられて、ようやっと「音楽」なんてものが少しずつ姿を現し始める。

「味のある演奏」などという曖昧模糊とした言葉で「単なる拙い演奏」にエクスキューズを与えないでほしい。

パウエルの拙い演奏は決して「味のある演奏」などではない。単に「下手くそな演奏」だ。それは恐らくパウエル本人だって嫌というほどに理解していた筈だ。あんなにも素晴らしい技術を持った人などそうそういないのだから。

身体的に衰えていく中で、そういった部分を別の様々な要素で補っていった結果、死の間際にあのような素晴らしい録音を残したのではないだろうか。パウエルは決して諦めなかったのではないだろうか。

私も自らの技術の未熟さに辟易とする事も多い。それでも諦めない。

修練は、そもそも楽しいしね。

結果として「ちっとも上手くならなかった」のは良いと思う。しかしね、上手くなる事をハナから放棄して言い訳ばかり探しているヤツを見ると「何なの?」となる。

芸事は伊達じゃないっすよ。マジに。

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