現在私は32歳である。多分。
今年の11月に33歳になる。多分。
多分と書いているのは、何だかここ数年、心から自分の年齢に興味が薄れ「あれ今オレ幾つだったっけ、えーと昭和54年生まれだから…」などと計算しなければならないようになっているからだ。「大体三十路の前半戦辺り」と大雑把な認識でいる。
32歳。二十歳そこそこの若者から見れば既に充分「オッサン」であろうし、年上の方々から見ればまだまだ「ケツの青いヒヨッコ」であろうと思う。私の居る音楽の世界は他の業界に比べると比較的平均年齢が高めの為、私はまだまだ「ヒヨッコ」の扱いを受ける事もよくある。スポーツの世界だったら確実に「中堅〜ベテラン」のカテゴリーなのだけれど、これは各業界の特色もあるだろう。
さて、そういった他者や他業種の方々と比べた結果の相対的な観点からではなく、「私自身」という一方的な時間軸の中で見ていると、やはり若い頃、10代や20代の頃に比べて自分が多少なりとも変化をしている事に気付く。
もちろん変化していない部分もある。変化した所も変化していない所も、どちらも「良くも悪くも」と冠してやりたい。良くも悪くも変化した所はあるし、良くも悪くも変化していない所もある、と。一元的に良かったり悪かったりする事など殆ど無いのだ。
例えば携帯電話のメール。
私はまだ20代の頃、「絵文字」というものを使うのが厭だった。相手から送られてくる分には構わない、しかし自分が使うのは厭だ、と。恐らく殆ど使っていない。このブログも25歳ぐらいから七年近く書き続けているが、多分絵文字らしい絵文字は遡って見ても殆ど発見出来ないのではないだろうか。今後も当ブログ内で頻繁に絵文字を使う予定は今のところ無い。
で現在、私は携帯電話のメールなどでたまに絵文字を使う。基本的にはあまり使わないのだが、「こういう時には使った方が良いんじゃないかな、コミュニケーションが円滑にいくんじゃないかな」と思った時などには絵文字を使う。最近の私のお気に入りの絵文字は
(ノ*o*)ノ 〜〜〜(/´θ`)/ あぁぁぁぁれぇぇぇぇぇ
という悪代官が町娘の着物の帯を引っ張っているという日本古来のスタイルのものと
m(_肉_)m
というキン肉マンことキン肉スグルが謝っている形のものだ。
あとは「〜゜〜。」で精子という、身も蓋も無い程に下品な絵文字もあるが、これは使わない。ナゼなら私は紳士だから。
これらの絵文字を駆使した私のメールの文例としては、
「○○様、○月×日の仕事の件、承知致しました。当日は何卒宜しくお願い致しますm(_肉_)m」
といったものや
「本当に私と致しましても○○様のご心中お察し致します。今度は是非私と以下のようなプレイで気分転換を計りましょう。(ノ*o*)ノ 〜〜〜(/´θ`)/ あぁぁぁぁれぇぇぇぇぇ」
であるとか
「えー、次の目的地は、卵子ー、卵子ー、終着駅でございますー。(←肝付兼太)〜。〜゜やっとだ…っ!やっとオレ達の旅も終わる…っ!夢にまで思い描いた…着床…っ!」
といったものである………
訳もない。
後半二つは絶対に送らない。ついついその場のノリで書いてしまった。許して頂きたい。
まあとにかく以前に比べれば絵文字ぐらいは使うようになっているのである。これは一つの変化だ。
この変化には、ある種普遍的な人間の成長の過程が含まれている、と私は感じる。
それは「自分がどう見られたいか」という意識の緩和であると私は考える。つまり自意識の緩和だ。
私が若い頃に絵文字を使う事を厭がったのは、そこに「絵文字なんて使わずにきちんと日本語を使って感情の機微を表現しろよ!絵文字に頼るなんて言語的な怠慢も良い所だ!」なんていう主張が表向きにはあったのだが、実際の所は「絵文字を一切使わないオレは言語に対して真摯な態度を持っている。そしてオレの事はそういう感じで見てほしいっ!」という、思い出しながら書いているだけで恥ずかしくなるような自意識過剰がそこにあった事は疑いようの無い事実だ。
要するに「絵文字を一切使わないオレ、マジに超クール」とカッコつけていたという事だ。
あー!もう!何だよそのカッコつけ方!わかりづらい上に全然カッコ良くないよ!お願いだからガムテープなどを用いて目張りをして完全に密閉された車の中に一人で入ってその中で練炭を焚いて!もしくは真冬の青木ヶ原樹海に行ってそこで睡眠薬を規定量の五倍服用した後に全裸になって樹の根に身体を預けといて!
いやホントに恥ずかしい。やーね、自意識過剰って。
で、その「こんな感じで自分は他人から見られたい」という意識が、段々希薄になってくるのである。フランクに言えば、「別にどう思われたって良いや」という事である。
私に限らず少なくない数の人々が成長の過程の中で「自分で思っているほど他人は自分の事を見てはいない」という事に気付くだろうし、「元々特別なオンリーワン」などではなく「元々ありふれたワンオブゼム」だという事を自覚していく。「成長し変化する」という事の一つの要因にはこれがあるのではないかと私は感じている。
それは決して卑屈になっていくという事とは違う。「市井の中の中流階級のありふれた一般人」という自覚は、色んな意味で自分を身軽にしてくれる。少なくとも「自分は特別な存在なんだ」などという自意識に支配されていた以前よりも遥かに多角的に物事が見れる。一度自分を「ワンオブゼム」の位置に置いてみて、「或いはオレも継続的に努力をすれば何か特別な事をなしうるやも知れない」というぐらいの感覚でいるというのが良いのではないだろうか。
であればこそ、別に携帯電話のメールにおいて「絵文字を使わないという矜持」など持たなくても良いのである。いや、そういった矜持を抱えている人を非難するつもりはない。そのメンタリティはまさに我が事のように理解が出来るから。しかし、そのような事によって得られるメリットはさほど多くない。得てしてそういったこだわりは自己満足の範疇を越える事は少ない。
ならば、別にそこにはこだわりなど持たずに「オッケーでーす、宜しくお願いしまーすm(_肉_)m」でも場合によっては良いのではないだろうかというのが私の意見だ。
そう、こうやって我々は自意識を先鋭化させていくのだ。
こだわりを捨てるのではない。こだわるべき部分とこだわらなくても良い部分の差別化を図っていく事で、こだわりの密度を増していく。それこそが或いは成長だとか変化だとかいう事なのかも知れない。
かく言う私も見た目、つまりは私のビジュアル面に関しては以前より「こう見られたい」というこだわりは薄い方ではあったのだが、結婚してからこっち、その意識は更に薄れ(最早皆無に等しい)、それに比例して腹も見事に成長して来た。
かみさんがぼやく。「たけちゃんは結婚する前はそんなに太ってなかったのに…」と。
うちのかみさんはそこに関しては理解をしなくてはならない。これは自意識の先鋭化の具体例なのだ、と。
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