先日のライブの事を少し。
一昨日、小岩「Back in time」にて行ったMitch(tp&vo)氏とのライブの事だ。
何とも嬉しい事に超満員のお客様に加えて、BBBB(Black Bottom Brass Band)の木村‘おうじ’純士(ds)氏もシットインして下さった。何ともハッピーなライブとなった。
Mitch氏やおうじ氏の素晴らしい演奏技術に関してはもはや説明の必要も無いが、私は彼らの音楽にある独自性を感じた。
それを「実存主義的な音楽」と呼びたい。
ジャズが生まれてから既に100年余、その形態はいくつかの変遷を遂げて来た。
私はかつてその変遷の特徴の一つを「大衆性を失うと同時に芸術性を獲得した」とこのブログでも書いた事がある。それに関しては今でも「確かにそういった経緯はあった」と思っている。要するに段々と「小難しく」なっていったのだ。
その変遷を考えた時に、音楽は徐々に観念的になっていったのではないだろうかと私は感じている。
普遍的な領域から個人的な観念領域へ。ある一時期から音楽がその表現の対象とするものは、徐々に個人的な観念へと移行し始めたのだ、と。
その移行に伴って、音楽はそれまで到達する事の無かった「次のステップへの切符」を獲得した。それは紛れも無い事実だろう。しかし、それと同時に失ったものもある。それはまさに「実存」に他ならない。
少々矛盾した言い方になってしまうのだが、個人的観念(或いは個人性)を追求した結果として、逆に「ここに私がいる」という実存性が損なわれた、そんな風に私は思っている。正確に言えば「表象化しづらくなった」という事なのだが。
わかりやすく言えば「体臭」が薄れた、と言っても良いだろう。実際に人間が音楽を奏でているのだから、そこから実存が消える事など無い。しかし、噎せ返るような体臭、つまり「実存」は感じづらくなっているのではないだろうか。
Mitch氏と共演させて頂いていた瞬間に私が感じていたのは、とてつもない「実存」である。
ステージ上に、他の誰でも無い「Mitch」という強烈な個性が在る。その実存性である。
圧倒的な存在感、と言い換えても良いだろう。「そこにMitchがいる」という事は、誰の目にも明らかだった。
伝統的なジャズのフォーマットに乗せて彼が紡ぎ出す歌やトランペットの音色は、強烈に彼の存在を主張した。間違いなく、彼は、そこにいた。
その実存主義的な音楽が生み出すのは、強烈な「パワー」である。彼の音楽に触れる時に、私はいつも「音楽は力だ」と実感する。人の心を暖かく包み込み、そして強烈に揺り動かす「パワー」である。本当に素晴らしい音楽家にのみ発する事を許された強烈な「パワー」、それをMitch氏は軽やかに発していく。奇跡的な光景だ。
Mitch氏とは十数年来の付き合いになるドラムのおうじ氏も素晴らしかった。身体が躍り出したくなるようなビート、それによってMitch氏の音楽は更に天高く飛翔した。共演しながら「何て素晴らしい音楽家たちなんだろう」と私は感動していた。
私は必死だった。無我夢中でピアノを弾いた。それでもMitch氏には「まだまだカッコつけすぎやな」と笑われてしまったが。
そうなのだ。恐らくは彼の音楽の素晴らしさを支えているのはその卓越した技術のみではなく、「全てをさらけ出そう」という潔さもまたその大きな要因の一つなのだ。
全てをさらけ出して、音に「自分」というものを込める。だからこそその強烈な「実存」があるのだ。
技術も覚悟も、本当に超一級品のものを見せて頂いた。
一番嬉しかったのは、「またやろうな」と言って頂いた事だ。
あんな素晴らしい音楽家と共に音楽をもう一度奏でられるならば、そんなに嬉しい事は無い。
ともあれ、大仕事一つ、終わりました。
ご来場の皆様、本当にありがとうございます。
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