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2012年2月 5日 (日)

飲むべきか飲まざるべきか、それが問題だ

「定番」というものが幾つかある。

「この場合はこれっきゃないでしょ」という自分ルールのようなものが。

あくまでも自分ルールなもので、なかなか共通の理解を他者に求めるのは難しいのだが、確かにそれはある。

で、大した話ではないのだが、蕎麦屋に行った時、それも立ち食い蕎麦屋に行った時の私の定番は「たぬき蕎麦」だ。ある一時期まではずっと「月見蕎麦」だったのだが、二日酔いの時などに生卵を口に運ぶと必然「おえ」となる事、また後述するが極めて複雑な事情により徐々に私の心は月見蕎麦から離れて行った。時は移ろう。人の心は永遠ではない。異常に顔の掘りの深い歌手も「永遠はどこにもない」と歌っていたではないか。

かくしてのたぬき蕎麦。揚げ玉(天カス)を乗せた蕎麦である。余談だが、たぬき蕎麦の呼称に関しては地域によって差異がある。私がかつて住んでいた京都においては刻んだ油揚げを乗せた蕎麦をたぬき蕎麦と呼んだ。なかなかに理解に苦しんだが、今では「そういうもの」として把握している。

月見蕎麦からたぬき蕎麦への心変わりは、「たまにはたぬきも」というような気軽なものではなかった。そこには深い懊悩があった。新しく若い女が現れたから、長年連れ添った古女房を捨てるような、そんなものではないのだ。深い逡巡と懊悩の末、苦渋の決断として私はたぬき蕎麦への道を選んだ。未だに月見に対する未練は十二分に在る。

月見蕎麦のデメリット、それは「月見」が卵を指す所にある。

先程書いたように二日酔いの身体に生卵を入れれば「おえ」となる。当たり前だ。水素を酸化させれば水が出来る、というような化学式と等しくそれは当然の帰結だ。

しかし月見の愉しみと言えばそれはまさに卵に在るという逆説もまた真である。月見には極めて複雑なパラドックスが潜んでいる。

月見の愉しみ、それは卵である。そして「いつ卵を崩すか」というタイミングに全てが集約されている。

眼前にキラリと光る生卵を傍らに追いやって、まずはつゆと麺のみので「かけ蕎麦」と同じ状態である「月見の一部」を堪能する。この状態で麺を全体の三割から四割やっつける。

しこうした後に、文字通り珠玉である卵を箸の先で割る。

とろけ出す黄身はまさに黄金の如し。それを充分に蕎麦に絡めながら啜る。いや、啜るという表現ではもはや足るまい。そう、貪るのだ。

このバランスたるやまさに芸術の域である。私も散々この愉しみの虜となった。

しかしこの際に一つ、悲しい運命が私を襲う。

「月見蕎麦のつゆは最後まで綺麗に飲み干さねばならない」

この残酷な天使のテーゼである。

「何で?残しゃあ良いじゃん」と思った貴方。貴方には月見蕎麦を食す資格など微塵も無い。もう一度前世からやり直して来る事をお勧めする。何度でも繰り返そう。「月見蕎麦のつゆは最後まで飲み干さねばならない」のである。

何故か。

先程の卵を崩す下りを思い出してほしい。月見蕎麦は卵を崩して食べる事にその醍醐味が集約されているのだが、問題は崩したその卵である。卵は箸先によって崩れ、蕎麦に絶妙に絡んだ後、つゆへと飛散するのだ。そう、つゆと卵が一体になる。

という事は、卵を崩した後の月見蕎麦のつゆは畢竟卵であると言って構わない。いや、最早卵なのだ。

卵を食いたくない者が月見蕎麦を食べる事など有り得ない。卵が食いたいからこそ我々は月見蕎麦を注文するのだ。なれば「最早卵と化したつゆ」、これを最後まで飲み干さねばならないという掟に異論を挟む者はいないであろう。

これが月見蕎麦の最大のパラドックスであるのだ。

勿論高血圧や高脂血症といった問題を抱える私にとっては、つゆを全て飲むなど危険窮まりない行為である。塩分過多によりその数日後には私の動かぬ骸が何処からか見つかる事は目に見えている。何より、二日酔いの身体に「つゆ全飲み」はなかなかにヘビイだ。

しかし月見蕎麦のつゆは必ず飲み干さねばならない。

私は悩みに悩んだ。「To be or not to be」と悩んだハムレット以上に私は悩んでいた。そう、飲むべきか飲まざるべきか、それが問題であったのだ。

そんな悩み多き私に救いの手を差し延べたのがたぬき蕎麦である。

ご存知のように、たぬき蕎麦に乗っているのは「天カス」である。天ぷらのカスである。

これならば、多少残す事も許される。何せカスなのだ。天ぷら本体ではないのだ。

いやいや、私も少々言葉が過ぎた。カスとは言い過ぎた。確かに天カスは天ぷらのカスであるが、それは神のカスである。これから天カスの事は「神カス」と呼ぼう。

しかし、この「たぬきのつゆ」、これを飲み残す事の罪悪感は、月見のそれに比して雲泥の差がある。

確かに名残惜しい。正直に言えば「たぬきのつゆ」も私は飲み干したいのであるが、飲み干した二秒後に成人病で死ぬので、私は断腸の思いでいつもたぬきのつゆを丼に残す。

こうする事で私はあと60年は生きながらえる事が出来る。仕方が無いのだ。命は、惜しい。

という事で二日酔いの日に、私はいつでもたぬき蕎麦を求めている。

蕎麦屋の定番のたぬき蕎麦。

これが定番となるには、かくも深い物語がそこに隠れていたのだ。

今日もたぬき蕎麦を食べた私からの、心温まる小咄であった。

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コメント

『月見蕎麦のつゆは必ず飲み干さねばならない。』
コレは真理です。
私は蕎麦のみならずラーメン、うどん、すき焼き、汁ダクの牛丼。
そういった食物に鶏卵を投入した場合必ず完遂します。(言い切った)
福島さん。
いま私はあなたと知り合う事ができて本当に良かったと思っています。
今後とも宜しくお願い致します。

投稿: 南たけし | 2012年2月 7日 (火) 17時24分

南たけしさんへ
わかって頂けて良かった。そうなんです、鶏卵を捨てるのは大罪なのです。稀に料理、例えばツミレを作る時などに卵黄のみが必要な時に卵白を流しに捨ててしまう時がありますが、ぼくはその度に「自分で自分を殴る」という罰を与える事にしています。鶏卵まさに珠玉の如しです。

投稿: ふくしまたけし | 2012年2月 8日 (水) 12時14分

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