来なくても遅れても良い
昨日、市川での演奏を終えてからの事である。
現場はJRの市川駅のすぐ近くにあったのだが、私は京成線で帰る為に現場から京成の市川真間駅まで徒歩で歩いた。時間にしておよそ五分強である。JRの市川駅と京成の市川真間駅はさほど離れてはいない。
駅について時刻表を見ると、私が乗るべき電車がやってくるまでに15分ほどの時間があった。まあ仕方があるまいと私は寂しげなベンチに腰を降ろした。
そしてその刹那、私はわかったのである。何故私が京成線をこんなにも愛しているかを。
周囲にもぽつぽつと人がいた。彼らもまた一様になかなかやって来ない京成線を待っていた。
その佇まい。
「待つのが当たり前」という気配が彼らにはあった。無論、私の脳裏にもあった。「待つのが当たり前」と。
私は遠い記憶を手繰った。私には、これによく似た記憶があった。
それはインドだった。
インドの鉄道は、日本のそれとはかなり趣を異にするのであるが、私の知っている、少なくとも十年近く以前のインドの鉄道は半端じゃない程に「来ない」ものだった。
今はどうかは知らないが、当時のインドの鉄道は全て予約制であった。乗り込む鉄道、そして座席に到るまで全て事前に予約をしなくてはならない、そういうものだった。
インドに滞在していたある時の事であるが、一度私は乗り込むべき電車の時間を寝坊の為に過ごしてしまった事があった。時間にして二時間ほど遅れてしまっていたと思う。「しまったなあ」と思いつつも「インドの鉄道はよく遅れる」という話を聞いていた私は、ダメもとで駅まで行ってみた。「或いはまだ電車は来ていないかも知れない」と思って。
私の目論見通り、電車はまだやって来ていなかった。「助かった」と思い、私はホームで電車の到着を待った。二時間も遅れているのだからもう間もなくやって来るだろう、そんな心持ちで。
それが、全くやって来なかった。
更に二時間、そして更に二時間。四時間ほど待ってみても電車はやって来なかった。途中私は駅員に電車の到着について聞きに行ったりもしたが、何度聞いた所で答えは常に「もうすぐ来るよ」としか返って来ない。俄かに不安を覚え始めた頃に周囲のインド人達を見回してみたが、インド人達には一向に焦る様子など見受けられなかった。彼らもまた一様に口を揃えた。「その内来るよ」と。
結果として電車はそれから更に四時間後、定刻より十時間も遅れてやって来た。悪びれる事もなく、至極当然のように。
私は約八時間程、本を読んだり物乞いの子供に飴をあげたりしながら遊んで時間を潰していた。
その原風景が私の中にはある。幾分心地の良いものとして。
かつて青春18きっぷを使って北海道の友人を訪ねた時にも似たような事を思った。
岩手を走るローカルな電車に乗っていた時の事である。秋空を突然濡らす雨のような、ふとした気まぐれのような生理現象が私に訪れた。私は脳裏でエウ゛ァンゲリオンの次回予告を描いた。
「第拾参話 便意、襲来」と。
パターンは茶、使徒UNKOであった。
即座に私は見知らぬ駅で飛び降りると、トワレを探した。トワレとは厠の事である。
光よりも速くトワレに駆け込む私。独り言で「セーフ!マジ、ギリでセーフ!」と呟いていた筈だ。
出て来た私は恐らく彼岸の菩薩よりも穏やかな顔をしていた。全ての煩悩と決別し、啓いた悟りの境地。まさに阿弥陀如来の御心のままに、である。
そしてそこで再び北へ向かう電車の時刻表を見た。
次の電車は、90分後。
そんな時に私は妙に愉快な心持ちになる。
インドは十時間来なかった。ならば一時間半などまさに一瞬の事よ、と。
その時は確か手持ちのウイスキーの瓶を呑みながら、駅のホームの地べたに寝転がって暇を潰した。360度何処から見ても「クズの人」であるが、駅員など誰もいなかったので怒られる筈も無かった。泥酔して90分後の電車に乗った。
かように、電車などは「来なくても良い」し、「遅れても良い」のである。そして乗客は「いつか来るよきっと」という程度の鷹揚たる心持ちで電車を待てば良いのである。
この感覚が、残念ながらJRの電車には無い。少々電車が止まったり遅れたりするだけで人々は「ざわ…ざわ…」となる。俄かに鼻が尖り始める。
私は声を大にして言いたい。
いーじゃん!遅れたって!止まったって!死にゃあしねえよ!
そして、この感覚が京成線にはある。京成線は、電車の到着が遅れる事こそ少ないものの、しょっちゅう止まる。快速の追い越しだとか何とかで。
私の家の近くにある京成小岩駅から京成上野駅までの間でも、いつものんびりとあちこちで止まる。恐らく歩いて上野まで行った方が速い。が、乗客にはそれに憤る様子はまるでない。
皆、それは「そういうものなのだ」と十全に理解している風情である。
昨日、市川真間駅で電車を待っている時にも同様の事を思った。
電車が10分やって来ない事など大した事ではない。
このような風情の京成線を、私は心より愛している。
でもそんな事は言っても遅刻しそうな時はどうすれば良いかって?
家を早めに出るんだよ!
もしくは先方にさっさと「すみません遅れます」の連絡を入れるんだよ!
と、至極真っ当な正論を吐いた所で本日は筆を擱く。
京成線は良いぜ。
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