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2011年12月29日 (木)

原発について今思う所

今年3月11日は、恐らく我々日本人にとっては忘れ難い日となるであろう。

東日本大震災。その未曾有の災害。凄まじいものだった。

奇しくもこの震災をきっかけとして、幾つかの事実が露呈された。正負どちらともの意味において。

良い意味で明らかになったのは、日本人の有事への対応力である。混乱に乗じた略奪などが派手に行われる訳でもなく、また震災以降も草の根レベルから様々な復興活動が機運を上げた。当たり前の行動として「助け合うのだ」という意識がある辺り、私は同じ日本人を誇りに思う。並びに手を差し延べた外国諸国の連中にも。取り分け台湾からの支援には私は強く心を打たれた。

負の意味では、やはり原発問題を筆頭に挙げざるを得ない。安全神話の崩壊、放射能の恐怖。電力会社がうやむやにしていた部分が周知に晒された。

今日はこの原発の事について書いてみたいと思う。今年を振り返る意味で。

まず私は率直に言って、現在盛り上がっている反原発運動に対して、嫌悪感というのは大袈裟になるが、少なくともいささかの違和感を抱いている。

違和感の発端はその閉塞感である。

脱原発、という事に関しては大筋において私も同様の意見だ。無くて済むならば無かった方が良いだろうとは思っている。

しかし、どうやらそれらの運動の最前線にいる連中の雰囲気を見るとそうではない。「即刻原発廃止、原発は百害あって一利無し、逆らう奴は国家の犬だ」、言い過ぎかも知れないがそんな空気がある。異なる意見を一切受け付けないようなヒステリックな面が私の目には映る。これが違和感の発端だ。

得てして運動というのはそういうものなのかも知れない。かつて連合赤軍と名乗る連中が浅間山の近辺において、仲間殺しの惨劇を起こしたロジックと一緒だ。集団の長が掲げた身勝手なイデオロギー。それと異なる思想を持つ者に対しては「総括」という名の暴力を駆使した。

そんな訳ねえだろ、と私は思う。様々な意見があって当然であるし、或いはそういった意見の対立によって弁証法的に有効な案が浮かぶかも知れない。反原発派の「原発は悪しきもの」という事を信じて疑わない様子に私は大いに違和感を抱く。

ではここからは批判を承知で。

私は今やるべき事は「一刻も早く原発を止める事」ではないと思っている。

私も科学は門外漢であるから詳しい事を聞かれても困るのだが、やるべき事は以下の三つのいずれかだと思っている。いずれか、或いは全てだ。

1:原発が無くなっても変わらない生活様式の確立

2:原子力に代わるより効率的な電力供給システムの開発

3:現状の原発を確実に安全に使用する為の「防護システム」のようなものの開発

1が最も現実的な方策かとは思う。仮に原発が失くなったとした時に、それに代わって水力風力火力などの発電システムが採用されたとして、供給される電力の総量は減るに違いない。「減っても困らない」ようにすれば良いのではないだろうかというのが私の意見だ。

例えばLED電球の開発などを考えてみて頂きたい。それは従来の電球に比べ、消費電力は少ないにも関わらず、明るさや持続性などの点においては従来以上だと聞く。

これこそが進むべき道なのではないだろうかと私は思うのだ。様々な日常の電化製品において、このLED電球のような発展があった場合に、「そもそも以前ほど電力がたくさん必要じゃなくなったんだよ、じゃあもう原発なんて使わなくても良いよね、サヨナラ原発」ならば話はわかる。これが一番の理想だと思っている。

2や3に関しても同様なのだが、私は原発を止める唯一の手段は、「文明の発展」以外には有り得ないのではないかと思う。 

確かに我々人類の文明は過度に発達し過ぎたのかも知れない。私自身ついていけない部分は多分にある。発達する事それ自体が手放しに素晴らしい事だなどとは個人的には思わない。しかしそういった私の個人的な意見とは別に、文明は常に「発展を続けるしかない」とも思っている。発展こそあれ、後退は無いのだ、と。この辺の事に関しては、私は吉本隆明氏というオヤジの意見に幾らか影響を受けている。

先に挙げた3つの提案の内、3の意見というのは吉本氏のほぼ丸写しだが、これが最も難しい提案であろうとも思っている。

というのは、もはや原発に関してはほぼ共通認識と言って良い程の不信感が存在しているからである。電力会社の隠匿体質なとが明るみになった以上、その電力会社がいかに「完璧に安全な防護システムが出来上がりました」と言った所で信用されるとは考え難い。実際私も信用しない。

しかし「原発即刻廃止、それ以外は有り得ない」という立ち位置ではなく、やはり重要なのは「無くなれば良いけれど無くならなかった時の事まで考えよう」という十重二十重の思考である。そう考えれば、脱原発と同時進行で安全な防護システムの開発が考えられる事は決して悪い話ではない。

2に関してはいささか非現実的ではあるかとも思っているが、実現すれば全てが丸く収まる。まあ、これはついでだ。

幾らか大雑把な事を言ったが、私は原発に関してはこんな事を今年一年考えた。まだまだ不勉強な部分も多いので、来年再来年となれば意見も異なる可能性は大いにある。

再三になるが、「即刻原発廃止」という事を言うのは構わない。構わないが、やはりどこかで「本当にそうなのか?」という疑問は持っていたい。

原発問題は、文明と科学の直面した大きな危機である。その危機に際して最も忌むべきは、思考停止以外の何物でもない。

まず一つ、我々の生活は大層危険なものに支えられて成立っていたという認識。そしてそれを甘んじて享受してきた責任。

それらを踏まえて葛藤する以外に、この問題が解決される気がしない。

原発に関して、問題の発生をフルマラソンのスタートとして解決をゴールとするならば、42.195Kmの内、まだ5Kmも来ていないのではないだろうか。

今原発を停止してハイ終わりっていうほど簡単な問題ねえよ、おそらくな。

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コメント

私も偉そうなことは何も言えませんが、至極まともでもっともなご意見だと思います。

どこかのタレントみたいに、子供の命を守るため今すぐやめるべきだ、とか言うのはむしろ簡単かもしれません。

それはまるで、消費税を今すぐ撤廃せよ、福祉を充実させよという非現実的な政策をうたう野党にも似ていますね。

投稿: オスカーちゃん | 2011年12月30日 (金) 23時07分

オスカーちゃんへ
「出来る所からさっさとやる」っていうのが一番良いとは思うんですけどね。理想を言い始めちゃうと話が長くなるし、やっぱり実際の行政の行動を遅くさせてしまっている一つの原因にヒステリックな運動があるのかな、ともどこかで思っています。難しいですよね、やっぱり。

投稿: ふくしまたけし | 2011年12月31日 (土) 18時00分

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