ご挨拶
大晦日なのに夢中になって昨日見たMitchさんの事について書いてしまったのでご挨拶が遅れました。
今年もこのアホブログにお付き合いいただきましてありがとうございました。
来年はより一層アホに下品にいきたいと思いますので、是非女子供の方々におかれましては読まれないようにお願い致します。
それでは皆様良いお年を。
大晦日なのに夢中になって昨日見たMitchさんの事について書いてしまったのでご挨拶が遅れました。
今年もこのアホブログにお付き合いいただきましてありがとうございました。
来年はより一層アホに下品にいきたいと思いますので、是非女子供の方々におかれましては読まれないようにお願い致します。
それでは皆様良いお年を。
昨日の事だ。
「Mitch」というミュージシャンのライブを観て来た。
素晴らしいステージだった。
大晦日、今年最後のブログの更新ではあるが、今日は昨日観たこのライブの事、並びにこのMitchというミュージシャンの事について書いてみたいと思う。
芸名は英語の表記であるが、勿論日本人である。本名は安田充さんという。
様々な日本人ミュージシャンの中で、このMitchというミュージシャンは私にとっては最も特別なミュージシャンである。信じられないくらい多くの影響を受け続けているし、純粋に私は彼のファンである。
これまでに御覧無い方の為に簡単に彼の事を説明すれば、いわゆる「ニューオーリンズジャズ」というジャズの1ジャンルに特化したミュージシャンの一人であると言ってほぼ差し支えないだろう。その一人というよりは、その旗手であると言っても良い。日本で彼に比肩するようなその道のミュージシャンを私は他に知らない。その道とは無論ニューオーリンズジャズである。「サッチモ」ことルイ・アームストロングから脈々と続く、「伝統芸能」としての側面を多分に持つジャズだ。
モダン期以降のジャズが、大衆性を手放すと同時にアカデミックな芸術性を獲得したのに比べて、その「伝統芸能」としてのニューオーリンズジャズは徹底して生活に根差した音楽である。祭事、葬式、或いは日々の喜びや慰めをニューオーリンズジャズは鮮やかに彩っていく。
Mitchというミュージシャンの音楽もやはり、どこまでも生活に根差している。実際に彼の音楽的な技術は驚くほど高いのだが、あまりそれを感じさせない。洗練された素晴らしい技術は、あくまでも「音楽を奏でる為の技術」であり「技巧の為の技術」では決してない。ひけらかしたりする事なく、粛々と彼は幸福な音楽を奏でる。とびきりの技術をもって。それはおそらく「生活」のために。
彼はトランペットを吹き、歌を歌う。そのスタイルはやはりルイ・アームストロングと同様だ。
彼の吹くトランペットの音は、どこまでも艶やかで伸びのある音色だ。歌声は暖かく愛嬌を含み、そして鳴り響くリズムは聴衆の身体を自然と揺り動かす。長らく名コンビを組むドラムの永田充康氏が後ろから叩き出す極上のビートに乗せて、彼の音楽は果てしなく飛翔していく。
彼の得意なナンバーの一つに「I’ll Fly Away」という曲があるが、この曲などを目の前で聴いていると、比喩ではなく実際に彼の音楽が飛翔していく様が見える。「When You're Smiling」を奏でれば、世界が本当に微笑む。まさに奇跡だ、と、いつも私は見る度に目頭を熱くする。
昨日だってそうだった。彼のトランペットの音色を聴いて、そして彼の歌を聴いていたら、私の目の奥が熱くなった。理屈抜きに彼の音楽は私の一番深い所にすっと入り込む。
昨日の事である。
ライブが終わってから即座に抱いた感慨は、「素晴らしかった、俺も明日からまた音楽の道に精進しよう」という事だった。これもまた不思議な感覚なのである。
彼のような超一流のミュージシャンの演奏を見ると、私は大体暗い気持ちになる事が殆どだ。音楽を辞めたくなる。目にした演奏があまりに素晴らし過ぎて。自分にはいつまで経ってもその段階に辿り着けないような気になって、「ああもう辞めてしまいたい、辞める事が出来たらどんなに楽だろう」と思うのだ。そうではあるのだが、大体において私はひどく忘れっぽい性質であるので、そうやって落ち込んだ事もまた忘れて翌日から何事もなかったかのように練習出来る。この辺の無神経な辺り、自分でもかなり得な性格だと思う。とにかく、超一流の演奏を見れば十中八九私は落ち込む。
それがことMitchの演奏に関しては、落ち込まないのだ。彼はここまで説明しているように紛れもなく超一流のミュージシャンである。だが、彼の演奏を見ても決して落ち込まない。何だか「落ち込む」というような思考回路を彼の演奏によって根こそぎ取っ払われてしまったかのように、「うわああ!Mitchバンドすげええっ!オレ明日からまた頑張るっ!」という状態にされてしまう。
音楽は力である。私はどこかでそう信じている。
音楽が無ければ人は生きていけない訳ではない。けれど確かに音楽によって生活はもう一つ素晴らしいものになる。辛い時にそっと寄り添ってくれる時もある。音楽には不思議な力が内包されている。そんな当たり前の事を私は彼の音楽に触れる度に再確認させられる。
Mitch。奇跡のミュージシャンである。まだ見た事のない人は是非一度見て欲しい。
皆さん年末楽しんでますか。
今日はこれからライブを見に千葉県は船橋まで。
本日の主役はトランペッターでボーカリストのMitchさんと彼のバンド。
私はね、このMitchさんの大ファンなのだ。男の私が見ていたって目の中がハートマークになってしまう。いやホント、めちゃんこカッコイイんだって。
亡くなったウチの師匠ともよく共演されていた。かっこよかったなあ、あのステージ。ほんでウチの師匠はアホ過ぎて、それがまたかっこよかった。
そんな訳でたっぷり楽しんで来ます。
今年3月11日は、恐らく我々日本人にとっては忘れ難い日となるであろう。
東日本大震災。その未曾有の災害。凄まじいものだった。
奇しくもこの震災をきっかけとして、幾つかの事実が露呈された。正負どちらともの意味において。
良い意味で明らかになったのは、日本人の有事への対応力である。混乱に乗じた略奪などが派手に行われる訳でもなく、また震災以降も草の根レベルから様々な復興活動が機運を上げた。当たり前の行動として「助け合うのだ」という意識がある辺り、私は同じ日本人を誇りに思う。並びに手を差し延べた外国諸国の連中にも。取り分け台湾からの支援には私は強く心を打たれた。
負の意味では、やはり原発問題を筆頭に挙げざるを得ない。安全神話の崩壊、放射能の恐怖。電力会社がうやむやにしていた部分が周知に晒された。
今日はこの原発の事について書いてみたいと思う。今年を振り返る意味で。
まず私は率直に言って、現在盛り上がっている反原発運動に対して、嫌悪感というのは大袈裟になるが、少なくともいささかの違和感を抱いている。
違和感の発端はその閉塞感である。
脱原発、という事に関しては大筋において私も同様の意見だ。無くて済むならば無かった方が良いだろうとは思っている。
しかし、どうやらそれらの運動の最前線にいる連中の雰囲気を見るとそうではない。「即刻原発廃止、原発は百害あって一利無し、逆らう奴は国家の犬だ」、言い過ぎかも知れないがそんな空気がある。異なる意見を一切受け付けないようなヒステリックな面が私の目には映る。これが違和感の発端だ。
得てして運動というのはそういうものなのかも知れない。かつて連合赤軍と名乗る連中が浅間山の近辺において、仲間殺しの惨劇を起こしたロジックと一緒だ。集団の長が掲げた身勝手なイデオロギー。それと異なる思想を持つ者に対しては「総括」という名の暴力を駆使した。
そんな訳ねえだろ、と私は思う。様々な意見があって当然であるし、或いはそういった意見の対立によって弁証法的に有効な案が浮かぶかも知れない。反原発派の「原発は悪しきもの」という事を信じて疑わない様子に私は大いに違和感を抱く。
ではここからは批判を承知で。
私は今やるべき事は「一刻も早く原発を止める事」ではないと思っている。
私も科学は門外漢であるから詳しい事を聞かれても困るのだが、やるべき事は以下の三つのいずれかだと思っている。いずれか、或いは全てだ。
1:原発が無くなっても変わらない生活様式の確立
2:原子力に代わるより効率的な電力供給システムの開発
3:現状の原発を確実に安全に使用する為の「防護システム」のようなものの開発
1が最も現実的な方策かとは思う。仮に原発が失くなったとした時に、それに代わって水力風力火力などの発電システムが採用されたとして、供給される電力の総量は減るに違いない。「減っても困らない」ようにすれば良いのではないだろうかというのが私の意見だ。
例えばLED電球の開発などを考えてみて頂きたい。それは従来の電球に比べ、消費電力は少ないにも関わらず、明るさや持続性などの点においては従来以上だと聞く。
これこそが進むべき道なのではないだろうかと私は思うのだ。様々な日常の電化製品において、このLED電球のような発展があった場合に、「そもそも以前ほど電力がたくさん必要じゃなくなったんだよ、じゃあもう原発なんて使わなくても良いよね、サヨナラ原発」ならば話はわかる。これが一番の理想だと思っている。
2や3に関しても同様なのだが、私は原発を止める唯一の手段は、「文明の発展」以外には有り得ないのではないかと思う。
確かに我々人類の文明は過度に発達し過ぎたのかも知れない。私自身ついていけない部分は多分にある。発達する事それ自体が手放しに素晴らしい事だなどとは個人的には思わない。しかしそういった私の個人的な意見とは別に、文明は常に「発展を続けるしかない」とも思っている。発展こそあれ、後退は無いのだ、と。この辺の事に関しては、私は吉本隆明氏というオヤジの意見に幾らか影響を受けている。
先に挙げた3つの提案の内、3の意見というのは吉本氏のほぼ丸写しだが、これが最も難しい提案であろうとも思っている。
というのは、もはや原発に関してはほぼ共通認識と言って良い程の不信感が存在しているからである。電力会社の隠匿体質なとが明るみになった以上、その電力会社がいかに「完璧に安全な防護システムが出来上がりました」と言った所で信用されるとは考え難い。実際私も信用しない。
しかし「原発即刻廃止、それ以外は有り得ない」という立ち位置ではなく、やはり重要なのは「無くなれば良いけれど無くならなかった時の事まで考えよう」という十重二十重の思考である。そう考えれば、脱原発と同時進行で安全な防護システムの開発が考えられる事は決して悪い話ではない。
2に関してはいささか非現実的ではあるかとも思っているが、実現すれば全てが丸く収まる。まあ、これはついでだ。
幾らか大雑把な事を言ったが、私は原発に関してはこんな事を今年一年考えた。まだまだ不勉強な部分も多いので、来年再来年となれば意見も異なる可能性は大いにある。
再三になるが、「即刻原発廃止」という事を言うのは構わない。構わないが、やはりどこかで「本当にそうなのか?」という疑問は持っていたい。
原発問題は、文明と科学の直面した大きな危機である。その危機に際して最も忌むべきは、思考停止以外の何物でもない。
まず一つ、我々の生活は大層危険なものに支えられて成立っていたという認識。そしてそれを甘んじて享受してきた責任。
それらを踏まえて葛藤する以外に、この問題が解決される気がしない。
原発に関して、問題の発生をフルマラソンのスタートとして解決をゴールとするならば、42.195Kmの内、まだ5Kmも来ていないのではないだろうか。
今原発を停止してハイ終わりっていうほど簡単な問題ねえよ、おそらくな。
年の瀬に一つ、今年を振り返るつもりで書きたかったエッセイというかトピックがあって、比較的マジメな話題なのだけれど、それをどうやって書こうかななんて考えていたら、今日は色々と事務的な事に追われてしまった。
一番ブログを集中して書けるのが私の場合は電車の中で、家だとなかなか書けない。やっぱり罪悪感があるんだな、「んなもん書いてねえでピアノ練習しろよこのドヘタが」みたいな。
なので今日は事務作業を一通りやった後に、数時間だけピアノの練習。ブギウギピアノのエクササイズとビバップピアノのエクササイズ。まあ最低限度だな。
今は移動しながらこのブログ更新。
明日は電車に乗るし、長文はまた明日書こっと。
今日はこれから歌の伴奏して来ます。
さて昨日書いたように、現在我が夫婦は牡蠣にあたってダウンしている。
牡蠣であたったという確証はある。
数日前、私とかみさんとハーモニカ皆川和義とボーカル大塚美香との四人で居酒屋に行ったのだが、その時にカキ酢(生ガキのポン酒合え)を食ったのが私と妻奈美子と大塚女史の三名、「オレ牡蠣は苦手だからいいや」と言って食わなかったのが皆川。その後皆川を除く三名に同様の症状が同時期に発症した事を考えると、ほぼあの時の牡蠣で間違いない。
「この生ガキの美味さがわからんとはお前も人生の8割は損しておるのう、がはは」などと皆川に豪語していた私達がこのザマだ。
まあ美味かったから良いけど。今後生ガキは気をつけよう。
という事で、昨日の夕方以降、私は仕事を休んだ。かみさんも今日はバイトを休んだ。
現在経済的危機にある我が家において、私が昨日日銭を稼ぎ損ねたのは大変に痛いのである。なので、もう私は完治した(という事にしてある)ので、今日から仕事に出る。
気合いだ気合い。
我が家自体は浄土宗であるが、母親はクリスチャンである。
であるので、クリスマスとか何とかいうイベント自体は比較的馴染み深いはずなのだが、サンタクロースの存在を信じなくなってからこっち、クリスマスとはほぼ無縁の生活を送って来た。
ここ数年でのクリスマスの思い出と言えば、その前後でライブがある時には申し訳程度にセットリスト(当日演奏する曲目リスト)にクリスマスソングを入れたりするぐらいのものである。ヒドイ時には曲間のアドリブソロの中にクリスマスソングの一節を引用したりするぐらいで済ましてしまう。昨日のライブでは一曲だけやった。クリスマスソングを。最後にトラディショナルの「聖者の行進」をやって、共演のハーモニカ皆川和義は「ちょっとこの曲もクリスマスソングぽい」と言ってはいたが、この「聖者の行進」は紛れも無く葬式の時の歌である。キリストの死を悼むのであれば関係もあるのだろうが、クリスマスって要はキリストの誕生日祭りでしょ?じゃ「聖者の行進」とか関係なくね?というのが私の見解であるのだが、詳しい事も知らぬので、余計な事をこれ以上言うのも止しておこう。
あ、あともう一つあった、クリスマスの思い出。京都に住んでいた時に、京都のとあるパチンコ屋が12月24日に「クリスマス記念パチスロ北斗の拳全台設定6祭」というのをやっていて、たまたま昼からその店にパチスロを打ちに行った私はパチスロのコインをパチスロ機からざくざく出した記憶がある。「パチスロ北斗の拳」の設定6というのは、パチスロ機についている三つのボタンを「えい、えい、えいっ!」と押すとコインがジャラジャラジャラアッ!と排出される台なのである。
「えい、えい、えいっ!」ジャラジャラジャラアッ!「えい、えい、えいっ!」ジャラジャラジャラアッ!という至福の単純作業だ。ボタン押すだけで金が儲かるってアホな話やでホンマ。
さて。私は別にクリスマスをdisっている訳ではない。その時期に彼女なり何なりがいた事もあるし、今はきちんと妻がいる。マウンテンアンダー達郎が言う所の「きっと君は来ない一人きりのクリスマスイブ」みたいな事も、あった時もあればなかった時もある。でもどちらでも一緒だ。有り体に言えば、「ほぼ関係無い」のだ。山アンダーも何が「サイレンナイホーリーナイー」だ、邪悪なスヌーピーみたいなツラしやがって。
ちなみに妻以前に付き合った事のある女性がいた事についてはこの間酒の席で田嶋陽子女史がアンチフェミニストを糾弾するかのような勢いでdisられた。理不尽極まりない。この事についてはまたいずれ。
なので、クリスマスで街がチカチカしている事によってテンションが「ヒャッハー!」とアッパーストラクチャートライアドにもならないし、かといって「浮かれてる奴らマジでウゼエ!」という気持ちがディレイドリゾルブする訳でもない。もちろん「良いんだ、どうせオレなんて…大五郎でも呑んでやる…」とアウトサイドにドロップ2もしない。というか、大五郎は普通に日常的に呑む。これが私の脳のトーナルセンターを破壊しているのだ。大五郎はクるぜマジに。
クリスマスは、粛々と何事も無く過ぎる。これが私のスタンダードだ。
ちなみにこの文章も、小岩駅近くの立ち呑み屋で一人で150円のポテサラをツマミに200円のレモンハイを呑みながら書いている。誇らしくも無く、いじけている訳でも無く、どこまでも「超普通」だ。
という事で、今年もほぼクリスマスは無関係にその前夜祭と本祭の二日間を過ごした。
それが私の「クリスマスの思い出」なのだ。
けれどね、ワクワクするのだ、クリスマスが終わると。終わった事ではなく、次にやって来るものに!
大好きな大晦日と正月がやってくる!
この二日間こそ祭なのだ!私は大晦日と正月が大好きなのだ。
という事で、皆さん良い年をお迎え下さいよ。
このブログも今年はあと6回ぐらいは更新出来るように頑張りますね。
年末の大掃除に飽きた時にでもまた見てやって下さいね。
年末、残すライブもあと数本。
ここ何日か書いてますが、本日は東中野Big Riverでのライブ。
このお店のピアノはエレクトリックピアノ。要は電子ピアノというやつだ。
私はこの電子ピアノに苦手意識が少しあって、いつもなかなか上手いこと弾けない。
ああ、グランドピアノだともうちょいラクなんだけどな、と自分の技術不足を棚に上げて楽器の事を嘆く事もしばしば。
なのに何故この店のライブに関して、「観に来てね!」とこうも頻繁に言っているのかと言えば、単純に「この店が好き」だからだ。
狭い怪しげな店内。美味い酒。自分の儲けよりも我々出演ミュージシャンの実入りを優先してしまうアホなマスターO川さん。
そんなものたちがとにかく好きなのだ。だから、店のピアノが電子ピアノであっても、そんな事は関係ない。全身全霊で少しでも良い音楽を提供させてもらいたい、本当に心からそう思う。
このマスターのいる店で演奏がしたい。そう思う店って、実はそんなにたくさんは無い。
そんな貴重なお店の一つ、東中野の「Big River」。
本日19:00からです。一つ、よろしく。
今日はレッスンやってから少し練習して、歯医者行ってから家に帰って年賀状書いて、とそんな一日。年賀状なんかを書いていると、いよいよ年末だと実感してくる。
さて、年末と言えば!
みなさんお楽しみの!
そう、明後日ですよ!明後日の12月24日!
何の日だか知ってますよね?
クリ○○ス?何を下品な事を言っているんだ!しまいにはオジサン怒るよ?
12月24日と言えば、東中野の名物ジャズバー「ビッグリバー」において、東京一のデブミュージシャン二人によるライブがある日に決まっているじゃないか!
12月24日の正しい過ごし方は、東中野「ビッグリバー」でライブ鑑賞と飲酒、この過ごし方に決まっておる。これが最もトレンディかつナウくて、粋でいなせなんである。異論は一切認めない。
という事で、
12月24日(土)東中野 Big River
http://www.bigjazzriver.com/st/nd.html
harp:皆川和義 pf:福島剛
19:00~start music charge: 2000円
グストボーカルもあり。そして某ピアニスト作曲による出来立てホヤホヤの新曲「雨が降れば京成線に乗って」もあり。ちょこっとだけクリ○○スソングもあり。楽しいに決まっているじゃないか!
ちなみにこのお店はちょっとおかしいのですが、全品350円という破格の値段。オレはこのお店の抹茶と青汁を混ぜたもので焼酎を割った「ナントカハイ(名前失念)」がお気に入り。美味い。
是非みなさまご来場を!
ハイハイ今日も京成線の話ですよ。懲りずにお付き合い下さいよ。
昨日のレッスンの時に生徒から「先生って京成線好きなんですよね」と言われた。どんな会話だ。
もちろん返す言葉は「大好きです」の一言に、「でもJRはあんまり好きじゃないんですよ、特に東京のJRは」と、さりげないJR批判も忘れてはいけない。
そうしたらばその生徒が教えてくれた話なのだが、京成線にはその昔、行商のおばあちゃん達専用の車輌があったという事だ。
驚愕である。私はわなわなと打ち震えた。デカイ籠を抱えた行商のおばあちゃんというのは総武線などでたまに見た事があったが、まさかその専用車輌があったとは!
すげえ!知らなかった!と思った私は急いでGoogle先生に尋ねてみた。「京成線、行商、専用車輌」のキーワードで尋ねると、出るわ出るわその専用車輌情報が。
どうやら関東大震災以降、千葉の野菜を東京都心部に運ぶ為に作られた車輌であるらしい事や、「なっぱ電車」の愛称で親しまれた事、その後廃線や合理化による縮小の為にその数を減らしていった事等々。かなり興味深い情報だ。私も半ば興奮しながらその情報を調べた。
しかし、私の興奮を頂点に達させた情報が更に一つあった。私は白目を剥き、膝を震わせて泡を吹いた。
読者諸氏、良いか、私は今から大事な事を言うぞ。一度しか言わないからノートに書き写すか腕に刺青で彫り込むなどして何回も読み返すように。
準備は良いか…
では…
「なっぱ電車は、今現在も運行中であるッ!!!!」
どうだ、この衝撃の事実。私が正気を保てずにいたのも十全に御理解頂けた事だろう。今も千葉の奥地から行商のおばあちゃん達が京成線に乗って東京に野菜を売りに来ているのだッ!電車の車輌が全て行商のおばあちゃんッ!何という衝撃の事実ッ!そして何て素敵な光景ッ!
私の調べによれば、千葉県の芝山千代田駅を7:46に始発し、そして上野駅に9:45に到着する便、列車番号732の電車の最後列車輌が、現在稼働している「なっぱ電車」なのである。
想像してみて欲しい…電車内でおにぎりを食べる行商のおばあちゃん…電車内に溢れる野菜と土の匂い…こんなにも素敵な電車が現在も存在するなんて…
私も機を見て是が非でもこのなっぱ電車を直に見に行きたいと思う。その際にはこちらに再び詳細を書こう。
心して待っていてほしい。
過日、とある生徒から「all the things you are」というスタンダード曲でうまい事アドリブが取れん!ツーファイブってどうやったら良いの!何か良いお手本ない?という旨のメールを頂いた。
今日、仕事の移動中に電車の中で暇だったのでそれに答えるメールを返してみた。頑張って書いたのでここにも晒してみる。ジャズを学んでいる人達に少しでも足しになれば。
という事で以下。
昨日のご質問の件、お答えします。
まずお手本になるような演奏という事ですが、ぼくがぱっと頭に思い浮かんだのは、アルトサックスのチャーリー・パーカーの演奏したものと、テナーサックスのコールマン・ホーキンスが演奏したものです。アルバムタイトルはパーカーの方が「jazz at massey hall」でコールマンが「the essen jazz festival all stars」です。どちらもピアノはバド・パウエルだったような気がします。取り分けコールマン・ホーキンスのソロは好きです。
それから、この曲(all the things you are)に関してですが、ご存知のように約四小節の間隔で転調を繰り返しますよね。まずはツーファイブを意識するよりもその各自のキーとそのメジャースケールをしっかり弾いてみる、というのがアドリブする際の基本になります。最初の5小節(Fm7からD♭△まで)ならばキーはA♭、シミラレの四つが♭になるキーです。で、6小節目から8小節目まではキーはC、全ての♭が取れます。
という事は、最初の5小節を「ラ♭シ♭ドレ♭ミ♭」で弾いてみて、(6)、7、8小節目を「ラシドレミ(全てナチュラル)」で弾いてみると、わかりやすく転調した感じが出ます。(6)としたのは、実は厳密にはこの6小節目の「Dm7♭5−G7」はまだキーがCでは無いからですが、ま、細かい事は一旦置いといて下さい。
で、続く9から13小節目(Cm7からA♭△)まではキーはE♭、シミラの三つが♭になるキーです。その前のキーがCなので、単純に♭を三つ加えてやれば良い、という事ですよね。更に(14)15から20小節目まではキーはGなので、♭が全部取れてファの音にシャープ、となります。
先に説明したように、まずはこのメジャースケールの中で色々とアドリブをしてみて下さい。メジャースケールだけなので当然フレーズが単調になりますが、最初はそれで構いません。まずはキーが変化している事をこういう訓練によって把握して下さい。
もう一つ、いつも言っている事ですが「曲の事を考えてアドリブをする」という事があります。曲を無視してコードだけを見ながらアドリブをするのならばわざわざこの曲をチョイスする必要も無いという事ですよね。やはり曲(テーマ)とアドリブに関連性がある方が良いです。特にアドリブソロの1コーラス目などはまだ充分にテーマの余韻があるので、テーマを意識しながら弾いた方が良いと思います。
という事でこの曲の特徴ですが、テーマをよく見て二つの事に気付いてもらいたいのです。
一つは「白丸の、拍数の長い音符が多い」という事です。ぼくはこういう曲をやる時には「ロングトーンや休符が効果的に使える」というアイディアを思い浮かべる事が多々あります。八分音符を基調にしたアドリブというのがビバップの常套句ですが、そういったビバップの流れに入る前にロングトーンや休符を使って「スペースのあるアドリブ」をするというのも有効なアイディアの一つだと思います。
またもう一つの特徴に、「テーマのメロディーが、各コードの3度の音を繋いでいる」という特徴があります。最初から見て行って「Fm7(ラ♭)↑B♭m7(レ♭)↓E♭7(ソ)↑A♭△(ド)↓D♭△(ファ)」というように、全て3度の音を繋いでいます。↑だの↓だのの印は音が上に移動しているか下に移動しているかを示しています。「Fly me to the moon」なんかもこの傾向がありますよね。3度から3度。
で、アドリブ時にもこの3度から3度を繋ぐというアイディアが有効になります。ただ、先程書いた「Fm7(ラ♭)↑B♭m7(レ♭)↓E♭7(ソ)↑A♭△(ド)↓D♭△(ファ)」をそのまま使うとテーマとまるっきり同じになってしまいますから、例えば矢印の向きを全て逆にして「Fm7(ラ♭)↓B♭m7(レ♭)↑E♭7(ソ)↓A♭△(ド)↑D♭△(ファ)」としてみる、なんてのも良いかも知れません。また、それぞれの音を繋ぐ時に、先程言ったようなメジャースケールの音を使うのも手です。少しメロディーっぽくなる筈です。っていうか「fly me to the moon」のメロディーみたいになりますけど。
また、テーマのメロディーは3度を繋いでいるから、じゃあアドリブの時には5度を繋げてみよう、なんてのも良いかも知れません。大事なのは「アドリブの1コーラス目にはテーマの余韻が残っている」という事を覚えておく事です。
それからツーファイブの事についてですが、Ⅴ(5)度の時に音を外してⅠ(1)度で解決する事によってジャズでは「オイシイ」フレーズ、というのがよくありますが、まずは以下の2つのパターンを練習してみて下さい。
1:Ⅴ7の#9度→♭9度→Ⅰ△の5度
2:Ⅴ7の♭13度→#11度→Ⅰ△の1度
キーをCで考えると、1のパターンは、G7の時にシ♭(#9度)→ラ♭(♭9度)→C△でソ(C△の5度)
2のパターンはG7の時にミ♭(♭13度)→レ♭(#11度)→C△でド(C△の1度)
です。G7の時の「シ♭ラ♭」の組み合わせや「ミ♭レ♭」の組み合わせはCのメジャースケール内には無い音ですから、「あれあれ大丈夫?」というような不安定な響きになります。それがソだとかドだとかというような「思いっ切りCのキーの中の音」に落ち着く事で、「ノープロブレム、大丈夫だ」となる訳です。
他のキーでの動き方は自分で数えてみて下さい。
また、慣れたら上にあるパターンとは別のオルタードテンション(不安定な音)からメジャースケール内の安定した音、というのも練習してみて下さい。
なお、もちろんⅤ7の時にメジャースケール内の音を弾いても全然おかしくはありません。
音の使い方なんかに関しては簡単にこんな所にしておきます。気をつけてもらいたいのは「どの音を使うか」という事と同じかそれ以上に「どうやって使うか」というのが大事だという事です。フォルテで弾くのかピアノで弾くのか。伸ばすのか切るのか。オクターブはどこにするのか等々。冒頭に挙げたお手本演奏を聴く際に、そういった部分も注意深く聴いてみて下さい。
もちろんバンドで合奏する時には周りの人間がどうやって弾くのかによってもアドリブフレーズは変化します。ぼく自身も普段の一人の練習の時にはオルタードがどうだとかアッパーストラクチャーがどうだとかを考えながら練習していますが、バンドの中に入って合奏する時には一回そういう事を完全に忘れるようにしています。あらかじめ用意したフレーズをアドリブソロで弾くのって何だかつまんない、というのがあるので。
という事で、長くなってしまいましたが、こんな感じです。頑張って練習してみて下さいね!
朝、っていうか昼か、自宅でレッスン一つ。終わってから「練習しようかな」なんて考えていたのだけれど、とりあえずラーメンを食べに外へ。
ラーメン完食後にやって来る「ラーメン食っちまった太ってしまういや太っている」という罪悪感を忘却の彼方へ追いやる為に、サントリーの黒烏龍茶を求めてふらふら。この黒烏龍茶を飲めばラーメンを食った事は無かった事になるというマイルールの為だ。
せっかくなので、かみさんがバイトしているデパートに行く。黒烏龍茶をゲットした後にかみさんの働いている所を見に行くも、接客中という事で無視される。
夜にもう一件レッスンがあって、それまでの時間が空いた。家に帰って練習するのも良いがと思っていた所で、近所のライブカフェ「Back in time」で昼のセッションをやっている事を知り、そこへ。
ピアノとベースを弾き散らかして来た。自分の演奏自体は酷いものだったけれど、楽しかった。最近本当に自分の演奏が酷いと思う事が多いのだけれど、何なのか原因は不明だ。練習は普段からしてるしなあ。練習方法も少し見直さないといけないのかも知れない。
で、今から本日ラストのレッスン。
ちょっと早めに着き過ぎたので、近所の公園で携帯からブログの更新。
てな訳でした。
食べているだけで機嫌が良くなる食べ物というのがある。
私は蕎麦だ。
食べ物自体が好き、というのも勿論あるが、蕎麦を食べていると「ああオレは東京人なんだ」としみじみ感じる。好き嫌いだけではなく、そういった自分の根っこのような部分を刺激するような食べ物と言えば他には天ぷらとか鰻とか。そうあまりたくさんは無い。
私には蕎麦の食べ方に関して一つだけこだわりがあって、それは「好きなように食べる」という事だ。
よく蕎麦好きの蘊蓄で、「最初は蕎麦だけを二、三本食べる」だの「蕎麦にツユはつけすぎない」などというものがあるが、そうやって食べたい人はそうすれば良いし、ツユをたくさんつけたければつけて食べれば良いのである。「これが粋なんだ」と人に押し付けるのは野暮の極みだ。「蕎麦は好きなように食べる」、これが私のこだわりである。
何故蕎麦の話をしているかと言えば、今日の昼間、親父とかみさんと三人で近所の蕎麦屋へ行ったのだがそこの天ぷらそばがとても美味かったからである。値段はそれなりにする蕎麦であったが、揚げたての天ぷらに絶妙な歯ごたえの蕎麦、そしてクセの無い上品なダシの効いた絶品のツユ。これらが至福のハーモニーを奏でていた。
親父と私とかみさんと、三人に共通する好物が天ぷらである事も手伝って、満面の笑顔の昼食であった。
店の名前は、京成小岩駅近くの「あらい」。昼間しかやっていないそうなので注意されたい。
天ぷらそば1300円。
コレはたまの贅沢にもってこいだ。
昨日、市川での演奏を終えてからの事である。
現場はJRの市川駅のすぐ近くにあったのだが、私は京成線で帰る為に現場から京成の市川真間駅まで徒歩で歩いた。時間にしておよそ五分強である。JRの市川駅と京成の市川真間駅はさほど離れてはいない。
駅について時刻表を見ると、私が乗るべき電車がやってくるまでに15分ほどの時間があった。まあ仕方があるまいと私は寂しげなベンチに腰を降ろした。
そしてその刹那、私はわかったのである。何故私が京成線をこんなにも愛しているかを。
周囲にもぽつぽつと人がいた。彼らもまた一様になかなかやって来ない京成線を待っていた。
その佇まい。
「待つのが当たり前」という気配が彼らにはあった。無論、私の脳裏にもあった。「待つのが当たり前」と。
私は遠い記憶を手繰った。私には、これによく似た記憶があった。
それはインドだった。
インドの鉄道は、日本のそれとはかなり趣を異にするのであるが、私の知っている、少なくとも十年近く以前のインドの鉄道は半端じゃない程に「来ない」ものだった。
今はどうかは知らないが、当時のインドの鉄道は全て予約制であった。乗り込む鉄道、そして座席に到るまで全て事前に予約をしなくてはならない、そういうものだった。
インドに滞在していたある時の事であるが、一度私は乗り込むべき電車の時間を寝坊の為に過ごしてしまった事があった。時間にして二時間ほど遅れてしまっていたと思う。「しまったなあ」と思いつつも「インドの鉄道はよく遅れる」という話を聞いていた私は、ダメもとで駅まで行ってみた。「或いはまだ電車は来ていないかも知れない」と思って。
私の目論見通り、電車はまだやって来ていなかった。「助かった」と思い、私はホームで電車の到着を待った。二時間も遅れているのだからもう間もなくやって来るだろう、そんな心持ちで。
それが、全くやって来なかった。
更に二時間、そして更に二時間。四時間ほど待ってみても電車はやって来なかった。途中私は駅員に電車の到着について聞きに行ったりもしたが、何度聞いた所で答えは常に「もうすぐ来るよ」としか返って来ない。俄かに不安を覚え始めた頃に周囲のインド人達を見回してみたが、インド人達には一向に焦る様子など見受けられなかった。彼らもまた一様に口を揃えた。「その内来るよ」と。
結果として電車はそれから更に四時間後、定刻より十時間も遅れてやって来た。悪びれる事もなく、至極当然のように。
私は約八時間程、本を読んだり物乞いの子供に飴をあげたりしながら遊んで時間を潰していた。
その原風景が私の中にはある。幾分心地の良いものとして。
かつて青春18きっぷを使って北海道の友人を訪ねた時にも似たような事を思った。
岩手を走るローカルな電車に乗っていた時の事である。秋空を突然濡らす雨のような、ふとした気まぐれのような生理現象が私に訪れた。私は脳裏でエウ゛ァンゲリオンの次回予告を描いた。
「第拾参話 便意、襲来」と。
パターンは茶、使徒UNKOであった。
即座に私は見知らぬ駅で飛び降りると、トワレを探した。トワレとは厠の事である。
光よりも速くトワレに駆け込む私。独り言で「セーフ!マジ、ギリでセーフ!」と呟いていた筈だ。
出て来た私は恐らく彼岸の菩薩よりも穏やかな顔をしていた。全ての煩悩と決別し、啓いた悟りの境地。まさに阿弥陀如来の御心のままに、である。
そしてそこで再び北へ向かう電車の時刻表を見た。
次の電車は、90分後。
そんな時に私は妙に愉快な心持ちになる。
インドは十時間来なかった。ならば一時間半などまさに一瞬の事よ、と。
その時は確か手持ちのウイスキーの瓶を呑みながら、駅のホームの地べたに寝転がって暇を潰した。360度何処から見ても「クズの人」であるが、駅員など誰もいなかったので怒られる筈も無かった。泥酔して90分後の電車に乗った。
かように、電車などは「来なくても良い」し、「遅れても良い」のである。そして乗客は「いつか来るよきっと」という程度の鷹揚たる心持ちで電車を待てば良いのである。
この感覚が、残念ながらJRの電車には無い。少々電車が止まったり遅れたりするだけで人々は「ざわ…ざわ…」となる。俄かに鼻が尖り始める。
私は声を大にして言いたい。
いーじゃん!遅れたって!止まったって!死にゃあしねえよ!
そして、この感覚が京成線にはある。京成線は、電車の到着が遅れる事こそ少ないものの、しょっちゅう止まる。快速の追い越しだとか何とかで。
私の家の近くにある京成小岩駅から京成上野駅までの間でも、いつものんびりとあちこちで止まる。恐らく歩いて上野まで行った方が速い。が、乗客にはそれに憤る様子はまるでない。
皆、それは「そういうものなのだ」と十全に理解している風情である。
昨日、市川真間駅で電車を待っている時にも同様の事を思った。
電車が10分やって来ない事など大した事ではない。
このような風情の京成線を、私は心より愛している。
でもそんな事は言っても遅刻しそうな時はどうすれば良いかって?
家を早めに出るんだよ!
もしくは先方にさっさと「すみません遅れます」の連絡を入れるんだよ!
と、至極真っ当な正論を吐いた所で本日は筆を擱く。
京成線は良いぜ。
単純な見た目の問題として、これまでに「誰それに似ている」と言われた事が結構ある。
良いように言われた事もあるが悪いように言われた事もある。一番悪かったのは「麻原彰晃に似ている」と言われた時だ。この時ばかりはその悲しさからサリンを撒こうかと思ったが、手元にサリンが無いのでやめておいた。というよりも、かなりヘビー級の犯罪なのでやめておいた。そんなことをしたら光よりも速くプリズンへゴーだ。決してサリンを撒いてはいけない。
最近、またショックな言われようがあった。度々共演しているハーモニカの皆川和義が私に言ったのだが、「ちんこくん(←最近和義の野郎は私の事をこう呼ぶ)は西田敏行に似てるね、腹が」との事。和義許すまじ。
何バカ日誌だ、マジに。と思いながら自らの腹を見てみた所、「はっ!釣りバカ日誌だ!」と瞬時に理解した。
私の太りっぷりは芸人のケンドーコバヤシぐらいであろうと思っていたのだが、そんなレベルはとうに越えて、間違いなくハマちゃんかスーさんかで言えばハマちゃんのレベルまで成長していた。
何てこった!
でも良いもん。オレも魚釣り大好きだし。
高血圧と中性脂肪の事だったら遠慮なく私に聞いてくれたまえ。
今日はよおけ働いた!明日も働くぞ!
明日はコレ!
12月12日(月)東京上野 アリエス
tel 03-3831-0523
http://www.jazz-cygnus-aries.co.jp/aries/ari-top.html
月イチ恒例のアリエス。スタンダードからオリジナルまで多彩な曲目でお届けいたします。大塚美香氏のボーカルも交えながら。澄み渡るハーモニカの音色をご堪能下さい。
harp:皆川和義 pf:福島剛 guest:大塚美香(vo)
19:20〜start music charge:2000円
見に来てね!
先月の家元死去の報から暫らくがたって、私の中でも「家元の死」ということについては少しずつ整理がついて来たので、今日は家元こと立川談志さんの事を書く。
立川談志。立川流落語の家元。素晴らしい落語家の一人である。
しかしそういう事とは別に、私にとっては立川談志という人は極めて特別な存在だったのだ。ひょっとしたらその感覚というのは「信者」などと揶揄されるかも知れない。まあそれでも良いか、とは思っている。
若い頃の彼の芸も好きだ。談志の声は少々聴き取りづらい所もあるし、人物描写、取り分け女性の人物描写に関しては、若干画一的に過ぎるな、と感じる事もある。しかし、そういった幾つかの点を考慮に入れたとしても、若い時分の立川談志の噺というのは、どれもこれもが圧倒的である。
まずは圧倒的なリズム感だ。噺が音楽へ昇華される瞬間というのが、一席の中に何度もある。紡ぎ出される言葉達、そして合間に入る呼吸。まさに音符と休符の関係である。あんなにも「音楽的な」落語家というのを私は他に知らない。
そして一番私が談志の落語が好きな理由であるが、全編を貫く比類なき緊張感である。談志が高座にやってくる。座布団の上に座る。丁寧にお辞儀をしてから枕に入る。もうこの一連の流れの中に、「括目して見ざるをえない」という緊張感が漂っている。良い意味でも悪い意味でも、彼の噺はBGMになりえない。噺家が客に相応のテンションを求めるような、そしてそこに確固たる必然性があるような、そんな芸である。
年老いてからの彼の芸はどうかと言えば、評価が分かれる所であろうとは思う。声が出なくなったり若い頃にあったリズム感が失われたりで、老いた談志の芸はダメだ、とする見方もある。それに対して、私は「老いてからの談志こそが」との思いがある。
私は晩年の立川談志を聴くと、ビリー・ホリデイ、そしてバド・パウエルの晩年の演奏を思い出す。
三者とも、若い頃には「圧倒的名人芸」で鳴らした連中である。それが、ビリーやパウエルに至っては麻薬やアルコール(パウエルには精神疾患もあった)の影響で、談志は老いの影響で、若い頃のようには芸をまっとう出来なくなった。その晩年の演奏が、何よりも不思議と心を打つのである。
これは何も「技術的に拙くなった芸が素晴らしい」などと言っている訳ではない。例えば「バーチュオーソ(巨匠)」として知られたジャズピアニスト、オスカー・ピーターソンの晩年の演奏に関しては、私は聴くに耐えない。指がもつれるその様は、見ていて単純に痛々しい。「もう良いよ、ゆっくり休みなよオスカー」とつい思ってしまう。オスカー・ピーターソンをたまたま引き合いに出してはみたが、オスカーに限らず、この問題に関しては圧倒的大多数が「衰えた芸」で人の心を打つ事が困難である、という事である。やはり瑞々しく洗練された技術が芸を支える、それは疑いようの無い事実である。
先に挙げた立川談志、ビリー・ホリデイ、バド・パウエル。この三者に関しては、極めて稀有な例であると言って良い。「衰えた芸」と一言に出来ないような、得体の知れない「凄み」のようなものがそこにはある。或いは常識的な範囲内での技巧を失う事で、何か私には想像のつかないような技を彼らが体得したのかも知れない。その真意はわからないが、彼らの晩年の芸には共通して人の心を打つ凄みがある、と私は感じている。
以前一度このブログで紹介したことがあるが、思想家の吉本隆明氏の数年前の昭和女子大での講演を観た時にも同じような感慨を得た。壇上で指示表出と自己表出の話なんかをしている吉本さんを見ていると、言葉こそ聴き取りづらくたどたどしいものの、「今俺が目にしている光景はよくはわからないが何だかとんでもない光景だ」という事ははっきりとわかった。共通しているのは、神々しい「凄み」である。
談志の「芝浜」を映像で見た。ここ数年のものである。
CDなどで慣れ親しんだ若い頃の談志の「芝浜」とは違う。先に述べたように、言葉は遅くなり、聴き取りづらくなっている。しかし、圧倒的に感動した。
噺の終盤、大晦日の晩の夫婦のやり取りを観ていたら、涙が止まらなかった。それは恐らく、話に感動していたのではない。立川談志という、誰よりも深く落語を愛して、そして落語と正面から向き合った、真摯な一人の芸術家の姿に感動したのだ。
落語とは人間の業の肯定である、と談志は言った。私にはそれが今一つピンと来ていなかったのだが、その「芝浜」を観て、少しだけ合点がいった。ひょっとしたら談志が追い求めたものは、こういうものじゃなかったのだろうか、と。
あれほどの名人だ。自らが衰えている事の自覚など嫌というほどにあるだろう。それでも高座に上がって、全身全霊で芸を魅せる。諦めや舌打ち、そして想像もつかないほどの悔しさを心の奥底に追いやって。
彼を観る度に、私は少し背筋が伸びる。
芸とは。そんな事をもう一度自らに問い掛ける。
まだまだ答えは出ない。しかし私もどうやら芸事の世界に足を踏み入れてしまっている以上、芸の道から足を洗うか、或いは死ぬかでもしない限り、ひたすらに向き合わなくてはならない問題である。
立川談志が死ぬその直前まで、芸に執着していたという事を聞く。本当に落語が好きだったんだと思う。
ありがとうなんて言わない。合掌もしない。
立川談志さん。あなたという芸人が、俺は心から好きだ。
昼のレッスンを終えて、本日はリハーサルの為に大宮へ。
私が住んでいるのが東京の東端、つまり千葉県のすぐ隣であるのだが、そのために千葉県に行く事に関してはほぼ何の感慨も無い。
しかしこれが埼玉県となると話が違う。埼玉に限らず、東京と隣接している神奈川や、勿論山梨などもそうなのだが、何かこう「旅情」のようなものを欠片感じてしまう。ああ、今日は「遠く」へ行くぜ、という感覚。
見知らぬ土地へ行くテンションは、嫌が上にもウナギ登る。
そんな事を普段乗らない埼京線に乗りながら考えた。
行って来ます。
ものすごく激ヤセした夢を見たが、起きたら全く痩せていなかった。いや、太っていた。そんな年の瀬。
昨日、ミュージックワークショップ東京のスピンオフ企画、「ミュージックワークショップ&セッション」が終了した。
当初の予定では、4時間の開催時間の内前半3時間をディスカッション形式のワークショップに、後半1時間をセッションに、というつもりだったのだが、結局4時間ほぼ丸々をワークショップに費やしてしまう。話の長いヤツがいたせいだ。私だ。
という事で責任は完全に私にあるのだけれど、やはりその場の雰囲気で「このまま時間を気にしながらせわしなくワークショップを切り上げてセッションに突入するよりも、じっくりワークショップを最後までやろう」と私はその場で思った為に、その場の判断でそういった形を採った。賛同し、一緒にディスカッションの中心になってくれたベースの大竹弘行とドラムの南たけしには心から感謝したい。
先週の「ピアニストの為のワークショップ」と二週続けたワークショップが終わり、私の中にも幾つもの発見がある。
音楽は常に動いている。耳を傾けて、それを捉らえなくてはならない。
大変充実の二回のワークショップ。またやろっと。
明日はコレ!
12月4日(日) 小岩 Back in time
03-3659-0351
http://www.bqrecords.net/backintime.htm
「ミュージックワークショップ東京主催ジャムセッション」
セッションホスト
piano:福島剛 bass:大竹弘行 drums:南たけし
13:30~open 14:00~start チャージ:1500円
当初は、「普通にセッションしようか」なんて話も出ていたのですが、打ち合わせをしている内に「やっぱりミュージックワークショップ(MWS)主催なんだからさ、セッションとワークショップの二本立てにしようよ」なんていう話になり、結局前半2~3時間はワークショップ、後半1時間ちょいはセッション、という事になりました。
大雑把に言うと「前半:理論→後半:実践」ていう感じかな。この二つは、すごく密接な関係で、バランスを欠いては決していけないと思っています。理論、というのは音楽理論みたいな知識の部分だけではなくて、「演奏状態を俯瞰して把握する事」だと思ってます。
これがなかなかに難しくて、自分では自分の事が見えない事がとても多いんですね。ぼくもそうなんですケド。で、それを参加者で相互に議論する事でよりクリアにしていこうっていうのがワークショップの目的の一つであって、今回もそういう事が出来れば良いな、と思っています。
例えば何かの曲を一曲演奏して、「今の演奏のこういう所は良かったよね」とか、「今はこういう感じでやったけど、別にこれこれこういうアプローチをしたらどうなるんだろう」とか、「そういえばオレ最近の練習でこういう事を疑問に思ってて」とか、「オレ最近酔っ払うと記憶をなくすんだけど大丈夫かな」とか。最後のは嘘だけど。ほんで大丈夫じゃないけど。
で、疑問を解決するも良し、更に疑問が深まるも良し、もう一回それを踏まえてやり直してみるも良し、という感じで。
そんな感じでワークショップ。で、最後は「はい、じゃあ難しいことは一回脇に置いといて、まあセッションするべ!」てな感じで出来れば良いかな、と。
なので、お時間の許す方は、前半だけとか後半だけではなく、通して参加して頂ければと思います。勿論料金は変わらないので。
そんな感じです。楽しいですよ。是非参加してみて下さい。
今日は(今日も?)時間があったので、基礎練の後はコピー。
全盛期の頃のバド・パウエルは本当にすごい。
速いパッセージとかは速過ぎて採譜するのに時間がかかる。かかりまくる。
パウエルくん、君ももうちょっとイケナイオクスリを控えてたら良かったのにね。
当時の連中、何であんなにオクスリ大好きな連中ばっかりだったんだろう。
まあ時代もあるんだろうけどさ。
本日はコレ。
12月1日(木) 岩本町 Eggman Tokyo East
03-5829-6400
http://www.egg-mte.com/
ジャムセッション。ジャズは勿論ですが、この日のホストは何でも出来ます。ぼくはあんまり何でも出来ませんが。ロック、ファンク、ブルーズetc. 一緒に楽しみに来て下さい!
セッションホスト
piano:福島剛 bass:上條貴史 drums:南たけし
18:30~open 19:00~start チャージ:1000円
急に寒くなってきて、雨まで降って、本当に嬉しい。
今日の上記の現場は岩本町にあるので、私は京成電車で京成小岩から日暮里まで出て、そこから山手線に乗り換えて秋葉原まで行って、というルートをとろうと思っている。秋葉原と岩本町は歩いていける距離にあるのだ。
想像してみて欲しい、のろまな京成電車が、寒い日に雨の中を、とろとろとろとろと、青砥だとか町屋だとか千住とかの街中を走るのだ。
本当に、心底うっとりする光景だ。今日は、ちょっと早めに出て、一度千葉方面にまで京成電車で無意味に行ってから、そこから折り返して日暮里まで行こうと思う。
ああ、寒い雨の日の京成電車、鼻血が出そうになるくらい素晴らしい…
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