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2011年10月 3日 (月)

意識の在り処による能動性と受動性

注意:本日当ブログ、女人禁制!

女子供達が帰ったところで、と。

意識、というものは果たして何処にあるのだろうか。

私が私であるという自意識、アイデンティティ。そういったものの在り処を考えた時に、我々の多くは「それは脳にある」と考える。脳、つまり頭部だ。それはあながち間違いではない。

また人によっては、「心」という意味で、心の臓、つまり胸部を指す人もいる。これもまた、明確に否定するべき術を私は持たない。

それは何処に在るものなのか、誰にも分からない。或いは霊魂のように、身体という容器の外にそれは在るやも知れない。意識の在り処に関しては、私は「わからない」と答えざるを得ない。「死んだらどうなるのか」という問いに答える術を持たないように。

思えば、この自意識によって私達の人生は味わい深いものとなっている。「私」とは誰なのだ?「あなた」とは?「彼(彼女)」とは?そういった哲学的思索の中で、わからない事に幾つか折り合いをつけながら、ため息をつきながら、舌打ちをしながら。それでもやはり人生は素晴らしいのだと言えるように、そんな風にして私は生きている。きっと多くの人がこの点に関しては同じように過ごしているのではないだろうか。

古典落語の傑作の一つに「粗忽長屋」なる話がある。詳細はwikipediaなどのページに委ねるが、話の概要としては、主人公である熊が路上で行き倒れて死んでいる「自分」を発見。確かにそれは死んでいて、熊は死んだ自分を抱えながら「確かに死んでるのは俺で、じゃあ抱えている俺は一体誰なんだ?」というサゲがついた所でお後が宜しいようで…となる何とも奇妙な話だ。家元談志を筆頭とする立川流落語では「主観長屋」とタイトルを変えられて演じられる事でも有名な話、勿論ここでも重要になるのは「意識」の問題だ。「私は誰なのだ?」という普遍的な問いが、この話を面白くしている。自意識、或いは意識の在り処、それは遥か昔から考えられ、今尚以って不明瞭な答えしか導き出されていない問題なのである。

さて昨晩、私を含めた高尚な男性四名が、この「意識の在り処」について極めて学術的で哲学的で形而上学的な議論を戦わせる事となった。

それは「セルフフェラに挑んだ事はあるか」という所から始まった。

繰り返して言うが、私を含めたその四名の男性は皆極めてアカデミックかつ高尚な人間である。全員が既婚者であり、私を除く三名が子持ち、つまり人様の親である。

セルフフェラ。日本語に直せば自分尺八。自らの下腹部のもう少し下部に鎮座ましますポコティーヌ伯爵、これを自らの身体を屈める事によりペロンチョ、否、ベロリンチョしてみようとする行為の事である。しつこいようだが繰り返して言う。全員が良い歳をした大人で既婚者、そして私以外は皆子持ちである。

私の中での常識としては、これは「あまねく全ての男達が一度くらいは試してみた事のある行為」である。勿論私は試してみた事がある。私は身体が硬いので伯爵まであと数センチ、届かなかった。たった数センチ、しかしその数センチが全てなのだ。甲子園の決勝戦、九回裏に本塁に突入した三塁ランナー、その伸ばした手がほんの数センチ、ホームベースに届かなかったように…

同席したT氏は、やはりこのセルフフェラに挑んだことのある一人だった。そして彼は何とその頂に辿り着く事に成功した、と言うのだった。私が挑んでも決して届く事のなかったその数センチ、T氏はそこに辿り着いたのだ。

しかしここで横槍が入った。残る二人のK氏とN氏は、このセルフベロリンチョに挑戦した事が無い、と言うのだ。そもそも何故そんな事をするのか意味がわからない、と。何をアホな事を言っているのだ、と反論したのは、私とT氏である。それは「何故山に登るのか、その意味がわからない」と言っているのと一緒で、答える言葉は「そこに山(ティンポ)があったから」の一択でキメ打ちである。そもそもその席にはK氏とN氏の細君も同席しておられた。大方伴侶の手前、見栄を張って嘘をついていたのだろうというのが私とT氏の見解ではあったが、私達は大人なのでK氏N氏の言葉の真偽自体は置いておいて、更にディベートを進めた。

そこで衝撃的な発言がK氏の口から飛び出した。

「それってさ、一体、舐めてんの?舐められてんの?」

まさに先ほど私が「粗忽長屋」の例を引用して書いたように、そこには主観性の問題が大いに孕まれていた。我々の議論は弁証法的な手法を用いて、「セルフフェラの主観性はどこにあるのか」というアウフヘーベンに辿り着いた。

そしてK氏が発した続く一言、これに一同騒然となった。

「だって口ってさ、脳に近いじゃん。なんか舐めてる、って感じが強くない?」

ざわ…ざわ…ざわ…

私たちの鼻が俄かにとんがり始めた。

ここでもう一度、意識の在り処を問題にしたい。

K氏の論では、口と伯爵(ティンポ)を比べて考えた時に、距離として口の方が脳に近い。それゆえに意識の主体性は口にある。そう考えた時に、セルフフェラという行為は「舐められる」という受動性よりも、「舐める」という能動性の方が割合としては高いのではないか、という話だった。

そうなると問題は一気に解決に近づく。かつてキンキキッズというアイドルは「愛されるよりも愛したいマジで」と朗々と歌い上げたが、そこにいた我々は皆「舐めるよりも舐められたいマジで」な人間である。少なくともことティンポに関しては。そうなると一気に「じゃあセルフフェラって、ティンポを舐める訳だから、気持ち悪いだけじゃん」という事で話が落ち着く。事実、昨晩はそこで話が落ち着いて、我々は次のトピック、「TENGAって使った事ある?」の話に移行していった。これもまた極めて高尚な話である。

しかし、私は一晩考え抜いた結果、もう一つのアンチテーゼに辿り着いた。

「いや、ティンポにも人格(意識)はある」

この事に異論を挟む者はもはや存在すまい。我々男子、必ず一度や二度は経験がある筈だ。「今頑張るな、今はお前の出番じゃない」と脳で考えているにも関わらず、股間付近の伯爵が「元気があれば何でも出来る!」とアントニオ猪木よろしく燃える闘魂と化してしまった事が。

私はそのような時には「やる気!元気!井脇!」でお馴染みの井脇ノブ子氏の姿を思い浮かべる事で、猛る軍神の気勢をそぐ事にしているが、それでもやはり抗えない時もある。

《参考画像》
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このように完璧な論を用いて証明したように、股間付近にも自意識が存在するのだ。

そう考えると、このセルフフェラという行為は必ずしも「舐める」という能動性だけではなく、「舐められる」という受動性をも孕むアンビバレンツな行為である事がわかってくる。

ならば「舐めるよりも舐められたいマジで」な我々がこの行為に一度ぐらいは挑戦しているという事にも合点がいくだろう。

というかさ、やっぱみんな一回ぐらいチャレンジしてるっしょ、セルフフェラ。

そんなこんなで、完全に下ネタのみな会話の元、私達の酒の席は過ぎていった。

いい歳した大人達の会話の99パーセントが男性器名称と女性器名称ばっかりなんだもんな。完全に狂ってやがる。

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コメント

素晴らしい。
あなたは、直木賞作家になれる。

投稿: TAK | 2011年10月 4日 (火) 07時08分

TAKさんへ
これは久しぶりに気合いを入れて書いたアホブログでした。褒められると嬉しくなってまた書いてしまうのです(笑)

投稿: ふくしまたけし | 2011年11月19日 (土) 15時49分

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