Abdullah Ibrahim 東京ブルーノート公演
Abdullah Ibrahim Trio、東京ブルーノート公演の三日目を観に行って来た。
昨日の記事でも少々触れたが、彼は私にとっては最も特別で、そして重要な音楽家の一人だ。
彼の音楽に出会っていなければ、今の私の音楽の嗜好性は随分と今とは違うものになっていたのだろうと思う。
「音」、と一口に言ってしまえばその概念は極めて抽象的になる。が、私の中に一つの理想として「美しい音」というものがあるとすれば、ある意味ではAbdullah Ibrahimの奏でるピアノの音というのがその具象だ。
初めて生で彼を観たのは、もう10年近くも昔になる。京都の上賀茂神社で観た。勿論、それまでに彼の作品群、有名な「African Piano」などには親しんできた私であったが、実際に間近で彼の演奏を観て驚いた。名器スタインウェイのピアノから、私がこれまでに一度も聴いた事のないような、深遠で美しい音が紡ぎ出されていた。そしてそれ以来、彼は私の中で代用の利かない無二の存在となった。
ピアノという楽器に向き合い始めてから、私も現在で十数年が経つ。実感としては短い時間であったし、これから先も、恐らく私が死ぬ時までピアノと向かい合っていく事を考えればやはり大した長さではないのだろうが、やはり十数年、それなりの期間でもある。ピアノと向き合い始めてからすぐに私はこの稀有なピアニストに触れ、そういう事を考えると私のピアノ人生は、大きくAbdullahに影響を受けながらのものであったという事になる。今の所、私がピアノというものについて考える時に、Abdullahの事を抜きにしてそれを考える事は不可能だ。
前置きが長くなった。それほどに彼は、私にとっては特別な存在であるのだ。
南青山にある東京ブルーノート。初めて訪れるジャズクラブだった。高級ジャズクラブの看板に偽り無い豪奢な店内で少々の居心地の悪さを感じながら、ビールをちびちびと啜りつつ開演を待った。
定刻通りに独りでステージに現れたAbdullah。ゆっくりと一礼をしてからピアノの前に座ると、即座にメロディが奏でられた。一曲目は「Salaam-Peace-Hamba Kahle」。極上のピアニッシモで和音が淡々と鳴り響く。その最初の一音から、背筋に電流が走った。「この音だ、この音に間違いない」と思った。そこからはいつもの彼のステージのように、一編の叙事詩のように途切れる事無く彼のオリジナル曲が演奏された。どれもこれも私にとっては思い出深い、素晴らしい曲ばかりだった。
独奏で彼がピアノを弾いていたのは20分ほどだっただろうか。最後のフェルマータが静かに鳴り止むと、会場からは多くの拍手が鳴った。そしてそれと同時に、ステージには二人の共演者が上がった。ベースのBelden BullockとドラムのGeorge Gray。トリオ演奏のスタートだ。
トリオになってからの一曲目は、これまた私の大好きな「The Mountain」。独りで既に完成された世界観を持つAbdullahに、ベースとドラムの二人がどう溶け合っていくのか興味津々だったが、実に見事だった。この一曲目の「The Mountain」で、既にその回答は明確に提示されていた。
思慮深いGeorge Grayのドラミング、そして非常に正確な音程とリズムを保って演奏されるBelden Bullockのベース。これらがAbdullahの音楽に見事な色彩を織り重ねていた。
一曲目を聴いてはっきりとわかった事がある。Belden BullockとGeorge Grayの両氏は、深くAbdullahの音楽を理解し、そして愛しているという事だ。譜面に音符が羅列された記号としての曲、という事ではなく、既に自らの中に深く根差した「そこに当たり前に流れているメロディ」としての意味合いを持った「曲」としてAbdullahの音楽を体内に取り込んでいるかのように見えた。「借りて来た他人の曲」ではないのだ。「既に身体の一部として存在する曲」なのだ。Abdullahが彼らをいかに信頼しているかがその事からわかった。そしてBelden、Georgeの両氏がAbdullahに大変な敬意を抱いている事も。
トリオになってからも変わる事無く途切れずにメドレー形式で演奏されるAbdullahの楽曲群。時折ベース・ソロやドラム・ソロ(これがまた実に素晴らしかった!)を挟みつつも、まるで家を建てる時のように、最初に土台を造り、柱を立て、壁を塗って、最後に屋根を被せて。全ての楽曲や、またそこに介在する音に必然性のある順序が感じられた。
昨年の来日公演の際にこのブログにも書いた事であるが、私はAbdullahから聴いた話を思い出した。
彼が若かった頃、まだDollar Brandの名前を名乗っていた頃の演奏、それは現在のAbdullahの演奏よりも幾分血気盛んでスリリングな演奏であった。勿論私はそれをレコードを介してからでしか知らないのだけれども。そして76歳を迎えた現在、Abdullahの演奏は更なる深みを増し、慈しみ深い味わいを湛えている。
私はAbdullahに尋ねた。「あなたはこれまでに様々な音楽的な変遷を経て今の境地に立っておられる。あなたはこれからどこへ向かうのですか」と。
それに対してAbdullahはこう答えた。「わからない(No idea)。なぜならば私はこれまでに変わろうとした事など無い。私はただ、‘連れて来られた’だけなのだ」と。
「何によって連れて来られたのですか」と私が尋ねると、彼は穏やかな笑みと共に「私の魂だ(My soul)」と答えた。私は何だかひどく泣き出しそうなほどに感動したのを覚えている。
その彼の魂が、トリオという形になっても、音楽を「しかるべき場所」へと導いてくれる。まるで音楽に羽根が生えて飛翔していくかのようだった。
トリオの演奏が鳴り止むと、それに換わるように大きな拍手が鳴った。拍手は暫くするとアンコールの催促へと変わった。私は「アブさん、疲れてるんじゃないかな、アンコールまで求めるのは酷かなあ、でもやってくれたら嬉しいなあ」と少々複雑な思いもあったのだが、Abdullahがピアノに再び座ると、やはり楽しみが勝ってしまった。
ヒットチューンの「The Wedding」などを挟みつつ、最後の締めの一曲は「Blue Borero」。最高の演奏だった。
Abdullah Ibrahim。こんな音楽家が存在してくれている事に心から感謝したい。
| 固定リンク
「音楽」カテゴリの記事
- 市川修 in New York(2017.10.31)
- ピアノ教室ブログ更新(2017.09.29)
- Abdullah Ibrahim 2015年の来日のこと(2015.10.27)
- 短期集中連載「Abdullah Ibrahimの魅力に迫る~第四回:2013年にAbdullah Ibrahimを観に韓国まで行った時のこと」(2015.10.07)
- 短期集中連載「Abdullah Ibrahimの魅力に迫る~第三回:Abdullah Ibrahimのルーツを辿る」(2015.10.06)
コメント