さて、将棋観戦記のこぼれ話編。
実はとんでもなく嬉しかったアクシデントが幾つかあったので、それをちょっと書いてみたい。
今回の将棋観戦、かみさんと二人で行った。私もかみさんも甲府自体はこれまでにそれぞれ行った経験はあったが、二人で一緒に行くのは初めての事であった。
甲府と言えば、最近では「B級グルメ選手権」なるもので、甲府の郷土料理である「鳥もつ煮」が賞をとった、という事は私もかみさんも知っていた。「時間的な余裕があれば、せめて鳥もつ煮ぐらいは食って帰ろう」、私とかみさんはそんな算段を立てていた。
結論から言えば、鳥もつ煮は食べずに帰って来た。というよりも、何も食わずに、ただひたすら会場であった「常磐ホテル」で将棋を見続けて、完全に「それのみ」で東京に帰って来た。正午過ぎに甲府駅に着くやタクシーで「常磐ホテル」に直行、帰りも対局が終わるや否やバタバタと東京に向かうという、まさに「Nothing but the 将棋」な日帰り旅行であったのだ。
常磐ホテルに私達が到着したのは、確か午後1時を少し回った頃であったと思う。後にしたのが夜の9時半過ぎだから、約8時間以上をその会場で過ごしていた。
そこで起こった不思議な話を幾つか。
将棋の対局自体が、一時間や二時間を超える「大長考」が度々起こりうる事もあり、会場の大盤解説も休み休みで行われていた。大体、30分やって10分休み、みたいなリズムで進んでいたかと思う。
その休み時間の間、私達夫婦も外に缶コーヒーを飲み行ったり(←ホテルの喫茶店は貧乏なので行けない)、ホテルロビー内を探検したりと、金をかけずに楽しみながら時間を潰していた。
会場では、プロ棋士達の直筆の色紙が一枚3000円で売られていた。その売上は全て東日本大震災への寄付金に充てられるという。将棋連盟のチャリティの一環だ。私達は貧乏な為、その色紙を購入する事こそ能わなかったが、興味深くその様々な色紙達を眺めていた。
毛筆で書かれた色紙達。達筆なものもあれば、そうでないものもあった。詰め将棋が書いてある色紙もあったが、私が一番笑ったのは、物凄く気の抜けた字で「気合」と書かれた色紙だった。わざと狙って書いたのだろうか。
そんなものを夫婦で眺めていると、後ろから初老の男性の声が聞こえた。
「米長会長の色紙はあるかね」
米長会長とは、言わずと知れた現在の日本将棋連盟の会長、米長邦雄永世棋聖の事である。
「あ、会長の色紙は昨日売り切れました」と係の者が答える。しかし彼の顔には何故か「参ったなあ」といったニュアンスの苦笑いが浮かんでいた。
そんな事を聞くのは誰だ?と思いながら私が後ろを振り返ると…
ぎゃあ!米長会長!
本人ではないか!私は思わずのけ反った。漫画の表現で言うならば、目玉がバネのようなもので飛び出している状態である。
あわわ…あわわ…と私が狼狽している所にかみさんが声を潜めて聞いてきた。「まさか、本人…?」と。
か、か、か、会長…と私がまだテンパっていると、何と会長が私達に話し掛けて来てくれた。
「あなたがたは、何処から来たの?」と。
「と、と、と、東京ですっ!」と答える私。会長は更に私のかみさんに質問を重ねた。流石は女好きである。男よりも女に話し掛けるのは極めて自然な流れだ。
「何?あなたも将棋好きなの?」と。
「あ、夫が好きで…」
「じゃあ、あなたは今日は付き添いで来てやってるんだ。ありがとうねえ」と会長。
おいっ!大山名人や中原名人らと共に将棋の一時代を築き上げたカリスマ棋士だぞ!何でそんな凄い人と私達は喋ってるんだ!と私は舞い上がった。かみさんも徐々にその凄さがわかってきたらしく、次第に頬も紅潮する。
そう、一つ目の嬉しいアクシデントは、この「米長会長との一瞬の会話」であった。
その後の大盤解説における会長の解説は、大爆笑の連続。下手なお笑い芸人などよりよっぽど面白い。流石は米長会長であった。
もう一つの嬉しいアクシデント。これについては「嬉しいアクシデント」などという言葉で説明するのも憚られる。それはまさに僥倖であった。僥倖。「ぎょうこう」と読む。かつて小泉今日子の親衛隊がキョン2に向けていた叫び声と同じである。「ギョウコウー!」
いや、実にとんでもない事が起きたのだ。それは森内新名人が、絶妙な奇手を放ってから暫くしての事であった。
息詰まる本局の攻防。私は一旦席を立って喫煙所へと向かった。一服して心を落ち着けたかったのである。
私はそこで、思いもかけない、私のアイドルに遭遇した。
その人の事はここでは「M氏」と書いておきたい。彼はミュージシャンである。彼もまたプライベートで来ていたのだから、実名を晒すのは彼に失礼やも知れぬ。
少しだけ彼について説明(ヒント?)を言えば、とあるロックバンドのボーカリストである。喋る時にはご自身の長髪を掻き乱しながら喋り、話は何一つ要約されていないにも関わらず「要するに」という言葉を多用する。東京は北区赤羽が生んだ、日本が世界に誇るロックミュージシャンである。
翻って自らを鑑みるに、私はジャズミュージシャンにのみならず、日本のロックミュージシャンにもこれまでに強い影響を受けて来ている。最も強い影響を受けたのは、中島みゆき氏と甲本ヒロト氏、そして眼前にいたみやも…ではなかった、M氏である。
辛い時や悲しい時、そして悔しくて泣き出しそうな時。私は彼の歌に励まされて来た。今でも彼の歌をしょっちゅう聞く。輝く太陽は俺のもので、煌めく月はそうお前のものだ。
そんな彼に、奇しくも名人戦の会場で、遭遇した。
タバコを吸っている私の元に、細身で小柄なカッコ良すぎる男が近付いてきた。「ああ、なんだかみやじ…いや、M氏に似ているなあ…」と私は思った。ふと思い出したのは、私のwikipedia調べによるとM氏は大の将棋ファンで、特に加藤一二三氏とその日の挑戦者森内俊之氏のファンであるそうだ。
確かにまかり間違えてみやもとひろ…ではなかった、M氏がいてもおかしくはない。でもいる筈などないものなあ、と私は思っていたのだが。
近付いて来て、私の傍らでタバコに火を点けた彼を見てはっきりと確信した。「本物だ…っ!」と。
伊達に15年近くもEレファントカシマシ(M氏の所属するバンド)のファンをやっている訳ではない。私にはわかった。「本物のミヤジ先生…ではなかった、M氏だ!」と。もうややこしいから、以下M氏の事は「先生」と表記する。
喫煙所で私と先生が二人。先生は、驚いて口をあんぐりと開けて酸欠状態の魚のように口をぱくぱくとさせる私に気付き、私に向かって軽く会釈をして下さった。
「み、み、み、みみみみみみやももももとさんですよね?」と声を掛ける私。それに「ええ」と頷いて答えて下さる先生。
私は何を言えば良いのだろう、と思ったが、口をついて出た言葉は、「ずっと…ずっとずっとファンでした!」という捻りも何もないダサダサな一言。いや、ホント言っとくけどな、憧れの人に突然何の準備もナシに会ったらそんな気の利いた事は言えねえぜ?かなりテンパるぜ?
「あー、ありがとうございますー」と答えて下さる先生。すっと右手を差し出して下さった。ぎゃあ!握手だー!
私は手汗をかきまくりつつ、その手汗をズボンで拭って、握手をして頂いた。先生の手は、小さく、華奢だった。
その後はあまり覚えていない。最近、やはりエレファントKシマシのファンである友人(石田ゆうすけ)が仙台のライブに行っていた事や、私は悲しい時には先生の歌を口ずさんだりする事、また私も音楽をやっている事などを先生に話したと思う。とにかくテンパっていた。
ファンに対して無駄な愛想を振り撒かない事で有名な先生である。冷たくあしらわれても仕方がない、とは思っていたが、先生は「いやあ、ありがとうございます」とカッコ良すぎる笑顔で優しく答えてくれた。もしも私が女だったら、「濡れていた」というレベルではない。水の都ヴェネツィアになっていた筈だ。
先生はとにかく優しくて良い人だった。そして、死ぬほどカッコ良かった。あんなカッコ良い男はおらんで、ホンマ。
先生は髪の毛をクシャクシャとしながら、「いやー、ぼくは今来たばっかりなんですけど。どうなってますか、形勢は?」と将棋の話を聞いて下さった。「いいいい今は…もももも森内さんが優勢ですがががが、まままままだわからないですっ!」と答える私。そりゃどもるわ。だから緊張してたんだって。
正味5分ぐらいだろうか、喫煙所での会話は終わった。完全に夢見心地だった。
先に会場に戻ったのは私だったが、先生は私の所から数列後ろに座っていらっしゃった。
不思議だったのは会場の将棋ファン達は皆、先生に気付いていない事だった。私など「もっと力強い生活をこの手に」とずっと呟いていたのに。そして先生もまた、完全に場に溶け込んでいた。私は当然プチストーカーよろしくちらちらと先生の方を見ていた訳だが、一手ごとに「おおー」と感心したり「ん?何だこれは?」と眉をしかめる先生の表情は、完全に「一将棋ファン」のそれだった。それがまた、素敵過ぎた。
夜9時半過ぎに、ついに羽生名人が投了。割れんばかりの拍手の後、私が後ろ、先生のいた辺りを見ると、既に先生の姿は無かった。私は、全て夢だったのだろうか、と思った。
そんなこんなで、私は先日は米長会長とM先生と喋った。
嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
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