« 岩沼の事1 | トップページ | ビビり »

2011年5月16日 (月)

岩沼の事2

ボランティアセンターは、大きな病院の近くにあった。すぐに見つかった。

午前の作業の受付開始時刻は朝の8時30分だ、という事は事前にネットで調べていたからわかっていた。私がボランティアセンターに到着したのは朝の7時。まだ受付開始には一時間以上の時間があった。私はまずは背中の重い荷物をどうにかしたかった。やはりこれもまた事前に調べていた事ではあるが、私はボランティアセンターの近くの公園に作業者達が幾つもテントを設営して、そこがさながら「テント村」になっている事を知っていた。まずはそのテント村へと足を運んだ。

噂に聞いていた通り、そこには幾つものテントが点在していた。私が想像していたよりは若干数は少なかったが、それでも10~20近くのテントがそこの公園には張られていた。

早起きな「先住民」たちに「おはようございます」と軽く挨拶をすると、私もそこの公園の空きスペースにテントを設営し始めた。被災地にボランティアに行っておいて不謹慎な話ではあるが、こうしたアウトドアの始まりは何とはなしにわくわくする。

細長い筒状のケースに入っていたテントを組み立てると、約二畳ほどのスペースのテントが出来上がった。設営時間は約10分。慣れた人ならばもう少し短時間で組み立てられるだろう。

テントが出来上がると、私は膨れ上がった背中のバックパックを無造作に小屋の中に押し込み、テントの前で煙草を一本吸った(無論携帯灰皿持参。携帯灰皿をくれたU野さん、ありがとう)。テント村となっている公園の真横には、被災して家を失くした方々が住んでいる仮設住宅があった。子供がランドセルを背負って学校へ行く。母親が洗濯物を軒先に干している。あまりにありふれた「日常」が目の前で繰り広げられている事で、私の現実感は少々希薄になった。「今、被災地にいる」という現実感が。

時計を見ると、やはりまだ8時30分までは少し時間の余裕があった。私は自らの身体ごとテントの中に押し込み、鞄からipodを取り出して音楽を聴いた。今度は脳内ipodではない、本物のipodである。普段は私は外で音楽を聴く事は殆どない。理由は特に無い。強いて挙げるとすれば、「外に出てまで音楽を聴かなくても良いだろう」というのがあるぐらいだ。けれど今回の旅行に出る前に、私は「ひょっとしたら音楽を聴きたくなる事もあるかも知れない」と思って、珍しく鞄の中にipodなんぞを潜ませておいたのだ。中には私の尊敬するピアニスト、Abdullah Ibrahim氏のアルバムが6~7枚分ほど入っているだけだった。

テントの中で寝転びながら、静謐なピアノの音色に埋もれていると、いよいよ私の現実感は薄くなる。現実と肉体が乖離していくような錯覚を味わった。

そうこうしている間に、作業受付の時間が近付いてきた。私は持ってきたカッパや作業着に着替えて、テント村から歩いて一分の場所にあるボランティアセンターに向かった。

ボランティア作業にあたる面々は、滞在のタイプとしては大きく分けて三つのタイプに分かれる。一つは私のようにテントを張ってそこに寝泊りする連中と、自分の車の中で寝泊りする車中泊組、そして日帰りの連中である。近くに簡易旅館もあるらしいのでそういった所に泊まっている人もいるらしいが、数としては少数だ。そういった連中が三々五々ボランティアセンターに集まって、作業の受付を待つ。老若男女様々なタイプの人間がそこにはいる、と言いたい所だが、やはり圧倒的に多いのは20代~40代と思しき男性だ。作業は基本的には肉体労働である。当たり前と言えば当たり前だし、やはりそういう「若い男手」こそが今の被災地に求められているのだなと合点した。

受付を済ませると、廊下に一列に並ばされ、順々にチームに分けられて作業のガイダンスを受ける。私が割り振られたチームは、6人のチームだった。作業内容は、依頼主宅の濡れた畳を40枚屋外に運び出す作業と、庭に溜まったヘドロを掻き出す作業。また、被害状況を写真等に収める行為は謹んでほしい、との注意を受ける。

ガイダンスを受けたら、ボランティアセンターの外に停めてある送迎バスに乗り込み依頼主宅に向かう。一台のバスに3チームが合同して乗り込んだ。およそ20人ほどだったと思う。

バスが走り出して間もなく、私は息を呑んだ。

被災の現実を目の前にした。

岩沼という街に関して言えば、私が降り立った岩沼駅、また最初に訪れたボランティアセンターの周辺は、「目に見える被害」はさほど受けていないようにも見えた。建物が壊れている訳でもなく、何かの異臭が漂うわけでもない。ちょっと拍子抜けした、というのが正直な所だ。

しかし、バスが海岸に近付いていくに従って、街の景色はがらっと様相を変えた。

干ばつして荒廃した畑、ひしゃげたガードレール、そして幾つもの廃墟。畑には夥しい量の瓦礫が散乱し、そしてその下にはヘドロがこびりついていた。

目を覆いたくなった。

間もなくすると、バスは作業地である依頼主宅へと辿り着いた。

私たちは指示された通りにまずは家屋内にある濡れた畳を屋外に運び出す作業に取り掛かった。

昔柔道をやっていた時に、道場の畳を運ぶという事は毎日のようにやっていた。それほど大した作業でもあるまいと考えていたが、甘かった。水と泥をたっぷりと含んだ畳は、存外に重かった。最初の数枚は調子良く運んでいたが、次第に腕に力が入らなくなってくる。私の身体も充分に鈍っていた。情けない我が身に苦笑しそうにもなったが、兎に角目の前にある畳を運び出す事に神経を集中させた。若い男の子と二人で畳を運んでいる最中にあまりに腕に力が入らなくなり、「ちょっとごめん!待って待って!」と言って畳を一度床に置いた時には、本当にひ弱な自分の身体が憎らしくなった。

その作業が終わったら今度は庭の泥かきだ。庭の土の上には、津波によって海底より運ばれたヘドロが10センチほども積もっていた。それをスコップで掻き出して一輪車に乗せて近くの畑へ捨てに行く。この作業のひたすらな繰り返しだ。

確かにきつい作業ではあるのだが、決して出来ない作業ではない。庭はそれなりに広く、泥かきを始めた当初は「こんなの午前中に終わるのかよ」とも思ったが、少しずつ泥をかいていくと、ヘドロが乗る前の、元の茶色い土を見せている範囲も広がってくる。結論としては、午前中にきっかりその作業は終わった。

休憩中には、年老いた依頼主夫婦がお茶の差し入れをしてくれた。本当に身体に染みた。

帰り際に少しだけその夫婦と話が出来た。

家の前に畑があった。その夫婦の畑だそうだ。勿論、その畑も荒廃していたが、その中で葱だけが力強く伸びていた。先端にコミカルな花をつけていた。

「こんなになっても葱は枯れないんですね」と私が言うと、奥様が

「うん、葱は強いんだ」と言った。

その言葉が、強く私の心に残った。

定刻になると、私たちを作業地まで送り届けてくれたバスが再び迎えにやって来てくれた。

「ありがとうね、ありがとうね」と、何度もその奥様は頭を下げた。元より曲がった腰を更に深く曲げた。旦那様は、バスが見えなくなるまでずっと手を振っていた。

私はそれを、バスの中から、見ていた。

(つづく)

|

« 岩沼の事1 | トップページ | ビビり »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 岩沼の事1 | トップページ | ビビり »