才能
最近「才能」という事についてたまに考える事がある。
例えば私は音楽を生業にしているが、私には音楽の才能はあるのだろうか。そんな事を以前は良く考えた。
結論から言えば、ある一時期を境にして、私は自分で自分に「才能など無い」と思い込む事にした。
「そんな事ないよ、才能あるって」などと慰めてもらいたいから卑屈に謙遜している訳でもなければ、冷静な自己分析の結果そのような結論に至った訳でも無い。
そうやって思い込んでおいた方が、私の場合色々と都合が良かったからだ。だから実際の所、私に才能が有っても無くても、どちらでも構わない。少なくとも今の所は。再三になるが、「才能など無い」と思い込む事が今の私には都合が良いのだ。
練習に際して、「才能の無い私」は、「才能の有る誰か」と比べて物覚えが悪い訳である。一つのフレーズを、「才能の有る誰か」が5分で覚えて弾けるようになるとしたら、私は30分はかかる。まずはそうやって認識する。
そうすると、同じような方法を辿っていたのでは、いつまで経っても私は「才能の有る誰か」に追いつかない事になる。
だからこそ、そこで知恵を絞る。
効率的な練習方法を考え出す事も一つの手だ。そして何より「とにかくやる」という事に重きを置くのが最重要だ。私が嘗て通っていた柔道の道場に、木村政彦という昭和の柔道家が書いた「三倍努力」という色紙が飾ってあったが、それは未だに私の一つの指針になっている。
演奏に関しても、指導に関しても、私の代わりなど幾らでもいる。私より才能に満ち溢れた人間が、腐るほどいる。その中で生き延びていかなくてはならない。そこが私の一つの出発点になっているのだ。
今日も今日とて家で一人で練習をしていた訳だが、練習を録音したものを聴いて、その演奏の酷さに愕然とした。タッチの粗さ、ミスの多さ、そして音楽性の欠如。
だからこそ、問題点を一つ一つ洗い出して、それらを解決していく必要がある。「何故そのようになってしまっているのか」という事を考える事で、自ずと私がやるべき事は決まってくる。「おかしいな、俺には才能が有る筈なんだけどな」と思っていると、そのような細かい点には気付かない。少なくとも私の場合は。
そうやって考えると、私には才能が無くて良かったな、とも思う。
日々の練習を継続する一つの動機になりうるし、それらを工夫しながらやっていくのも愉しい。何でもかんでもすぐに出来てしまったら、恐らくはここまで愉しくなかったんじゃないだろうか、と勝手に想像する。
今日の練習テーマは、左手と右手の独立。左手で一定のベースパターンを弾きながら、右手で自由にアドリブをする、という練習。これがドヘタなものだから、すぐに左手は見当違いの事を弾き始めてしまうし、右手はいつまで経っても自由にならない。
でも、少しずつ出来るようになって来る。
これが、たまらなく愉しい。
練習に戻ります。
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